ふるふる図書館


第二部

第八話 父と子とその友人



 森川知世、飛鳥瑞樹、滝沢季耶を残して、春日玲は七瀬邸を辞去した。
「あら、玲君。もう帰るの?」
 女主人の七瀬玖理子が少し残念そうに見送った。
「ええ。このあと用事があるんです」
 玲の顔をまじまじと見つめ、七瀬玖理子は小首をかしげた。
「何かあったの? 顔つきがいつもと違うわ」
 鋭い。
「いえ、何も。では、失礼いたします」
 玲は夕焼けに染まる外へ出た。ポケットに手をつっこんで、歩行を進める。
 背後から、走る足音が近づいてきた。
「おおーい、春日。待ってくれよう」
 玲は足を止め、振り返った。知世と瑞樹と季耶が追いついてきた。玲は無言で、三人の顔を見た。
「話がさっぱりつかめないんだけど、お前、かっこよすぎるぞ」
 唇をとがらせる知世につづいて、季耶が両手の指を組みあわせて言った。
「いやはや、師匠といると、本当に退屈しませんねえ。謎めいた過去のあるところもすてきです。惚れ直しましたよ」
「そんなのんきなことを言っている場合ではないんだぞ」
 知世が主張した。
「おれも一緒に行く」
「だめ!」
「そう言うと思った。お前が心配でついて行くわけじゃないぞ。お前がひとりで片をつけたがっているなら、じゃまはしないよ。おれが何か手助けしたくても、足手まといになるだけだってお前は思ってるしさ。わかるよ、それくらい。
 でも、お前には、おれを守る義務があるだろ。お前がいないときに、どんなめにあわされるかわからないじゃないか」
「めちゃくちゃな理屈を持ち出すな。それだと、滝沢と飛鳥もついて来ることになるじゃないか」
 季耶が口をはさんだ。
「おれたちも行くって言いたいところですけど、森川先輩におまかせします。師匠は、おれたちの言うことなんて聞かないでしょうが、先輩の言うことなら聞きそうですから」
「もりかわせんぱいは、おまもり」
「そういうことです。先輩がいれば、師匠もあんまり無茶はしないでしょ」
 玲は肩をすくめて、くるりと背中を向けた。
「好きにしろ」
「うん。好きにする」
 普段の玲なら、知世であってもついてこさせることなどないはずだった。これから会う人物の存在が、多大な緊張を強いていることを、玲は自覚せずにいられなかった。

 待ち合わせ場所に指定されたホテルは、玲と彼が最後に会ったホテルだった。玲は知世をともなって、ロビーに入っていった。
 知世はおのぼりさんよろしく、ものめずらしげにきょろきょろしている。
 芸能人やら各界の著名人やらが、数多く利用する一流ホテルだ。なんとも場違いな感じで、落ち着かないのだろう。まだ制服姿ということもある。
 見覚えのある人物が足を組んで腰かけていた。三年前とあまり変わっていない。その前で、玲は足を止めた。
「お久しぶりです」
 カジュアルな服を粋に着こなした中年の伊達男は、気さくに笑いかけた。
「やあ。しばらく会わないうちに、ぐっと男ぶりが上がったね。そちらは?」
 彼は知世を一瞥した。玲はごくさりげなく知世の前に立ち、視線をさえぎった。
「知人です」
 彼は、灰皿で煙草を押しつぶし、すっと立ち上がった。
「場所を変えようか。人目のあるところで話すのは、はばかりがあるだろう」
「どこに行くんですか」
「わたしはここに部屋を取っていてね。お友達も一緒に来るかな」
「いいえ。ふたりだけで話をしましょう」
 玲の声はおのずと硬くなる。
「その子によほど話を聞かれたくないのだね。だいじょうぶ、内容がもれないよう、隣室で待っていてもらおう。どうかな」
 知世をひとりにしておくのはまずいだろう。
「……わかりました」

 ばかでかいスウィートルームに案内されると、玲は盗聴器がしかけられていないか、念入りに確認した。彼との話し合いに使うリビングルームも、知世が待機するベッドルームもだ。
 沈黙を守っている知世とふたりでベッドルームに入り、くどいほど念を押した。
「いいか、おれが呼びに来るまで隣の部屋に入るなよ。来たら絶交だぞ」
「わかった。ねえ、やっぱりおれ、来ないほうがよかった? 帰ろうか。タクシー代くらいあるよ。電車より財布にきびしいけど、そっちのほうが安全だろう」
「今さら何を言ってる。無理やりついてきたくせに」
「ごめん。怖気ついたとか、そういうのじゃないんだ。おれがここにいると、お前に不利になるような気がする」
 玲は、知世の頬に両手を添えて、おもてを上げさせた。
「よけいな心配するな。いいから、お前はいつものようにしてろ」
「いつものようにって……」
「のどか、のんき、のんびり、のほほん、能天気がお前の身上だろう」
「あのなー。それじゃただのあほうじゃないか」
「だってその通りだろう。何をふくれている、卦体なやつだな」

「かけないか」
 ソファにゆったりと座っている彼のすすめを、玲は謝絶した。
「何か飲むか。あやしい薬など入ってないぞ」
「結構です。おかまいなく」
「用心深さと慎重さは変わっていないな。大きくなっても子兎みたいだ。せっかくこうして会えたのだから、くつろげよ。
 なぜずっと連絡しなかった、玲。お前のために演劇部を廃止したんだぞ。後始末が大変だった」
 そらきた。玲は眼を伏せた。
「すみませんでした。怖くなってしまったんです。自分のわがままが。だから、もう会わないほうがいいだろうって」
 彼には、もしかしたら玲との関係が終わっていないのではないかと思わせておく必要があったのだ。そうでなければ、彼は再び演劇部を復活させてしまうおそれがあった。だから、連絡を取らずにいたのである。
 彼は低く笑った。
「お前の演技はアカデミー賞ものだな。すっかりだまされたよ。このわたしが、まんまといっぱいくわされたとはね。他人行儀をつづけていないで、お父さんと呼んでくれないのか、玲」
 玲はゆっくりと視線を上げた。
「やはり、ご存じでいらしたんですね」
「落ち着いているな」
「あなたの再婚相手の連れ子が身近にいるんですよ。いつかは露顕すると思っていました」
「しかし、すぐにはわからなかったよ。年齢も、苗字さえも知らされていなかったからね。偶然那臣のアルバムを見た。一枚だけお前が写っているのがあった。それがなかったら、気づかなかっただろうよ。念のため興信所に調べてもらった」
 細心の注意をはらってはいたが、どこかで写真を撮られてしまっていたらしい。
「お前は、わたしが父親だと知っていて近づいたのだろう」
「同好会にいやがらせをしたのは、どうしてですか」
「約束を反故にされて、黙っていられると思うかい」
「まだ反故にしたと決まったわけではありませんがね。あなたにとっては致命的ですよね、ぼくとのことが公になったら。ましてや相手が庶子なら、なおさらです。マスコミが狂喜乱舞するでしょうね。あなたは地位も財産も家庭もある。失うものが大きすぎませんか」
「公にする? お前が? 同級生の家庭を破壊して、良心の痛まないお前じゃないだろう。冷たい人間を装っているらしいが、本当はどうなのかな」
 今度は玲がくすっと笑った。
「買いかぶられては困ります。自慢になりませんが、装ってなんていませんよ。三年前も、あなたの好みに合わせた演技だったんですから。
 あなたが、未成年の少年とホテルで密会していたことを示す写真とテープがあります。三年前のものですが、充分有効でしょう」
「それがはったりでないという証拠は?」
 玲はポケットから写真を取り出した。彼は玲に近づき、受け取りざま腕をつかんだ。
「なんて下手くそな交渉だ。駆け引き上手な以前のお前は、見るかげもない。この三年間、ぬるま湯につかった生活をしていたと見える。それともあの子に気を取られているのか。
 失うものがあるのは同じだろう、玲。隣の部屋にいる子、森川知世君か。いかにも純朴そうな子だな。お前が昔どんな生活をしていたのか、知らないのだろう。知ったらどうなるかな」
 玲は平静を保って、父の眼を見つめ返した。
「どうもなりませんよ。ぼくはあいつの友達ではありませんから」
「ではためしてみようか。お前は、『あの街』ではかなり有名人だったそうだな。やはり小枝(さえ)の息子だ。目的のためなら、誰にでも体を投げ出す女だったからな、小枝は」
「おかしなことをおっしゃいますね。ぼくはあなたの息子でもあるのに」
 やりかえす声が、緊張と警戒にかすれてうわずったのが、玲にはわかった。
「そうだな、お前はまぎれもなくわたしの血をひいている。お前のことはすべてお見通しだ」
 父は玲の体に手をかけた。
「触らないでください。頸動脈を切断されたくないでしょう」
 玲のナイフの切先が、父の首にぴたりと当たっていた。父はみじんも動じない。
「物騒かつ剣呑だな。父親に刃を向ける気か」
「あいにくぼくは肉親の愛情なんて経験したことありませんからね、情に訴えてもむだです」
「なぜそんなに過敏に反応する? わたしに可愛がられたことが忘れられないのか」
「うぬぼれが強いですね」
 父は嘆かわしそうにためいきをついた。
「やれやれ。わたしは、ただひとり残された、血肉をわけた実の息子と、再会の抱擁を交わすことも許されないのか。お前に会いたいばかりに、あのような手紙を出したのに」
 せつせつとした口調に、玲の手がわずかにゆるんだ。すかさず父はナイフをつかみ取った。その拍子に、刃が玲の額をかすめた。
 よけようとして、体がサイドテーブルにぶつかった。グラスが勢いよく落下し、けたたましい音を立てて砕けた……。

20040621
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