ふるふる図書館


第二部

第六話 友人と伯母と闘争心



 おだやかな五月晴れの放課後、近所の川原で桜花高校の演劇同好会の活動がおこなわれた。いつもと同じように。
 そこでは飛鳥瑞樹が芝居のけいこをし、森川知世が監督し、滝沢季耶が見学し、春日玲が草はらに寝ころんで見物していた。いつもと同じように。
 日ざしが長くかたむき、解散したところまではいつもと同じようだった。平和で平穏で平凡な日常生活。
 だが事件の足音は、ひたひたと迫りきていたのである。
 ゆっくりと藍色が濃くなっていく夕間暮れの空の下、知世は玲とふたりで、よもやま話などしながら、川に沿って歩いていた。すると、玲に突然ひじをつかまれ、わきにひきよせられた。
 はっとして薄暗がりに眼をこらすと、いかにも柄の悪そうな連中が、ふたりを取り囲んでいるではないか。ざっと五人ほどか。よほどのお人よしでも、とうてい友好的とは解釈しかねる視線を向けてきていた。
 明かりもひとけもなく、乱闘にはもってこいの場所である。
「お前が春日玲か」
 ひとりが横柄に確認した。名指しされたほうは、可愛げのなさで人後に落ちない。眉ひとつ動かさなかった。
「人違いだ、ほかを当たれよ」
「し、しらばっくれるな。よくも、いけしゃあしゃあと」
「それなら聞くな。礼儀知らずに名乗る名前はない。遊びにつきあってやる気もない」
「何なの、あの人たち。けんか売られる心当たりでもあるの」
 知世はあからさまに迷惑顔をして、小声でたずねた。玲は肩をすくめた。
「ありすぎて、いちいち思い出せないな。お前はすぐに逃げろ。人を呼んでこい。戦力にならないんだから」
 口惜しくも事実なので、反論できかねた。
「お前はどうするの」
「だいじょうぶだ。慣れている」
「ひとの心配より、自分の心配をすべきじゃないか、春日玲」
 ひとりが問答無用と襲いかかってきた。玲は、余裕にみちた表情をくずさない。
 そうだ、玲はけんか巧者としてその名をあまねく鳴らしているのだった。むろんこんな攻撃などすばやくかわして……。
 と思いきや、右ストレートが玲の顔面に命中。
 知世は前のめりにがくっと脱力した。
「ええーっ? ちょっと、なんであっさり殴られてるの?」
「うわ、こいつめちゃくちゃ弱いぜ」
「今だ、知世、走れ」
「でも」
「いいから早く」
 知世は背中をおされて、土手を駆けのぼりはじめた。どんくさいとしょっちゅうけなされているが、運動能力そのものは決して劣っているわけではなく、走るのもかなり速い。
 しかし。
 背後から投げつけられた鞄が、知世の頭を直撃した。バランスを失ってよろめき、草の斜面をずるずる滑り落ちたところを、腕をつかまれて川原までひきずられる。
「おい、どこへ行く気だよ、お嬢ちゃん。じゃまをすると、ためにならんぜ」
「そいつに手出しするのはやめておけ」
 玲の声が聞こえた。暴漢が手を振りかぶり、知世は反射的に体をすくめた。
 だが苦痛に顔をゆがめてうめいたのは、暴漢のほうだった。骨を折らんばかりに手首をつかんでいるのは、玲である。
「この、さっきまでやられっぱなしだったくせに」
 玲はきらりと眼を光らせた。口の中を切ったのか、赤く血に濡れた唇が、すごみを添えていた。
「ここまで殴られれば、正当防衛と認められるだろう。このおれに傷をつけたからには、それなりの覚悟はできているんだろうな、多勢をたのむ卑怯者。
 知世、これからの光景は見るんじゃないぞ。教育に悪いから」
 三分経過。
 またたくまにるいるいと築き上げた負傷者の山と、ぽかんと口を開けている知世を前に、玲は頭をかいてひとりごちた。
「あーあ、手加減しようと思っていたのに。おれってやんちゃすぎ」
 手近に転がっていた者の襟首を、ぐいっとつかむ。
「でも、お前らも悪いんだぜ。勝ちめがないと悟ったら、さっさとひくのが賢い手段ってものだ。
 さ、吐きな。誰にたのまれた?」
「何のことだ」
「独創性に乏しいとぼけかただな。零点。ただの怨恨でないことはわかりきっている。おれを知る者は、先ほどの脅迫で九割が怖気づくか逃げるかするからな」
 遅ればせながら、声とともにわらわらと近づいてくる物音がした。騒ぎを聞きつけた通行人らしい。
 玲は舌打ちをして手を離した。万有引力の法則にしたがい、犠牲者の頭が地面にぶつかるのを無視して、知世に言い渡した。
「おれは演劇同好会とは関係のない人間だ。お前も聞かれたらそう言え」
「暴力なんてふるうなよっ、お前! やりすぎだろ。手加減ってものを知れよ、本当に! 殺しちゃったらどうするんだ! 何を考えてるんだよ?!」
「だから見るなと忠告しただろうが」
「そういう問題じゃない!」

「退学? 春日がですか」
 翌日、国語科準備室に呼び出し、教諭の木野忍がもたらした情報は、知世に大きな衝撃を与えた。
「昨日の乱闘は、向こうからしかけてきたんですよ。それに、春日は暴力をふるう気はなかったんです。おれがやられそうになったから、かばうために……」
 木野教諭は血相を変えた。
「なにい?! やられそうになった? 襲われた? 傷ものにされたのか? 見せてみろっ」
「うわあっ。何するんです先生、落ち着いて」
 教諭は知世の制服のボタンにかけた手をひっこめ、ごほんと咳払いした。
「とにかくだ。処分はほとんど本決まりになった。春日はつい先日も、退学届をもらっていたらしい。その意志があったということだな」
「でも、していないじゃありませんか。せっかく中退を思いとどまった青少年の心をくじくんですか。教育者のくせに」
 木野教諭は、うなって頭髪をばりばりかきまわした。
「玖理子さんと同じ顔でにらむなよ。弁護したくても、これまでの生活態度がなあ。学校側は、すきあらば退学にしてやろうと、虎視眈々と狙っていたんだよ。
 春日が演劇同好会に籍を置いていなくて、よかったじゃないか。置いていたら、連帯責任でつぶされかねないところだ」
 知世は椅子から勢いよく立ち上がった。
「おれ、抗議してきます」

 同日の放課後、薬局「くすりのひまわり」に知世の姿があった。
「うーんと、これかなあ。ちょっと違うか。どれがいいんだろう」
 陳列棚でうろうろ選んでいる知世。
「あら。あたし、白髪染めを買ってなんてたのんだかしら」
「うわっ、伯母さんいたの。あ、これは、えっと」
 白髪どころかしわすらない伯母は、胡乱そうなまなざしで、あたふたしている知世を見据えた。
「何かわけがあるのね。おうちでお話ししてくれるわね。そのあとでも、遅くはないでしょ」

 知世は居間のソファで、いきさつを語って聞かせた。
「まあ、それで知世ちゃんが校長先生に直談判を? やるわねえ」
 知世はしょぼんと肩を落とした。
「でも、ちっとも聞き入れてもらえなかった。挙句の果てに、『きみは桜花創立以来の秀才だから見逃してきたのだが、その髪の色は感心できないね。きみの友人の素行が不良だという証拠ととられても仕方ないだろう』とまで言われた。
 だから、黒くしようと思って、さっき薬局に」
 伯母は憤慨した様子で、ソファからすっくと立ち上がった。
「冗談じゃない。そんなばかな話はないわ。あたしが今から校長先生にかけあってきます」
 知世は床にころがり落ちそうになった。
「伯母さんが?」
 伯母はすでに、すたすたと玄関へ歩き出している。こんなときの伯母は、知世に四の五の言わせぬ迫力にみちみちている。ふだんはにこにこ笑みを絶やさぬだけに、よりいっそう。
「あたしはあなたの保護者がわりなの。それにその髪は、イギリス人だったあなたのひいおばあさんの遺産よ。いいこと、伯母さんが帰ってくるまで早まっちゃだめよ」

 伯母は帰宅するなり、腰に両手をあてて高らかに宣言した。
「安心して、知世ちゃん。玲君の退学処分は取り消しにしてきたわ。だからあなたも、髪を染めるなんてしなくていいわよ」
「本当? すごい、伯母さん。ありがとう。いったいどんな交渉をしたの」
「交渉なんてものではないわ。校長先生はね、あたしの幼なじみなの。子供のころ、同じ合気道教室に通っていたのだけど、いつもあたしに勝てなくてぴーぴー泣いていたわ。かやちゃんなんて、泣き虫ごんちゃんって呼んでいたくらいよ。
 知世ちゃんの髪を見るとあたしを思い出すから、言いがかりをつけたのね」
 ここにもいたか、腕っぷし自慢が。知世は話の展開についていきかね、たずねた。
「合気道の試合で負けた腹いせ?」
「ごんちゃんは、昔あたしにふられたのよね。それでよ。でも、あたしの家来だったから、あたしに頭が上がらないの、いまだに」
 知世はぐったり力が抜けて、クッションを胸に抱いたまま、テーブルにつっぷした。
「何じゃそりゃあ。おれが何を言っても聞く耳持たなかったくせに。しかもそんな理由で、髪を黒くしろって? 見くびられてたの、おれ」
 伯母は、甥の頭をなでてなぐさめた。
「それは知世ちゃんが子供だから。でも、あなたはちっとも悪くないわ。見くびるおとなが悪いのよ」
「ちくしょう、おとなめ。おれも早くおとなになりたいよう。今の心を持ったまま、おとなになってやるんだ」
 少し悔しい思いでクッションに頬をうずめ、知世は胸のうちでつぶやいた。
「おれが自分であいつを助けたかったのにな」
 何はともあれ、一件落着。
 の、はずだった。
 この騒ぎは、今後起こる事件の序章にすぎなかったことを、知世はまだ知らない……。

20040621
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