第二部
第五話 下宿人とその世界
ぼくの名は、小園深晴(こそのみはる)。桜花高校に通う二年生。
周知の通り、桜花高校といえば、屈指の学力レベルの高さと伝統を誇る男子校だ。それと忘れてはならないのが、ぼくの厳しい審美眼にかないうる制服。
入学したのはよいが、通学時間が非常にかかる。そこでぼくは五月の連休明けから、高校のそばにある家にご厄介になることにした。
部屋が余っているので、下宿屋をはじめたばかりだという洋館である。格調高いこの館は、ぼくにまったくふさわしい。
館の当主は、七瀬玖理子さん。うるわしい女主人をひとめ見て、たちまちぼくはその魅力のとりこになった。
ぼくが長いこと探し求めてきた理想のひとだ。完膚なきまでに清純可憐で、楚々とした美少女。幻想の中にしかいないと思っていた少女が、現実に目の前にいるのだ!
「あたし、そろそろ三十になる娘がいるのよ。この童顔は、ほとんど特異体質の域よね」
う、嘘っ。
いや、年齢なんてどうでもいい、この際。愛さえあれば年の差なんて。
おやおや、ぼくとしたことが、陳腐で世俗的な言い回しを。ふふふ、柄にもない。
いやいや、彼女は年齢さえも超越している、神秘かつ不可侵の存在なのだ。そうさ、そうだとも。
玖理子さんの甥も、この屋敷に住んでいる。三年生の森川知世さんだ。
学業の成績のよい知世さんのことは、かねてより耳にしていた。
しかし、うわさというのはあてにならない。聞いていた以上だった。無垢でけがれを知らないヘイゼルブラウンの瞳、極上のマシュマロのような頬、白いうなじ、キャラメルの色に明るくかがやく髪。
「ねえ小園君、何か香りがしない?」
顔を寄せてくるしぐさがいじらしい。それでいて、ぼくのジバンシイのトワレに気づくほどのセンスが……。
「伯母さん、トイレの芳香剤かえたの? 少しきつくない?」
ないみたいだ。知世さんほどの人でも、このぼくの美意識には遠くおよばないのか。
よろしい、これからじっくり教えてさしあげよう、手取り足取り丁寧に。それでこそ、ぼくも楽しめるというものだ。
つぼみを無理強いすることなく、温室で育てるように、手塩をかけよう。あどけなさはそのままに、知世さんがみやびにしとやかに気高く開花するさまが、今から眼にうかぶではないか。
ああ、この家は、美を一途に愛するぼくのために、神が与えたもうたごほうびなのだ。
ぼくの名は、小園深晴。あくなき美の探求に、一生をささげると誓った人間。
その日、知世さんを訪れた彼と玄関先で再会した。
刹那、彼と共有した時間が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。あれはそう、およそ半月前のことだった。
「滝沢季耶君。よく来てくれたね」
よく響くテノールで呼びかけつつ、無人の体育倉庫の陰から、しなやかな足取りで歩み寄り、腕組みしたまま立ちどまる。
夕映えの中、ふわりとトワレの香りをただよわせ、同時にふわりと髪をそよ風に遊ばせる。
よし、完璧だ、この登場シーン。決まりすぎている自分が怖い。
季耶君は肯定のしるしに、手にした結び文をひらひらさせた。
「放課後に呼び出す場所としては、スタンダードだね」
「ぼくは、二年二組の小園深晴。美術部の部長をしている」
「美術部ね。決闘を申しこまれるおぼえはないけど」
「そんなことはしないさ」
ぼくは低く笑った。耳にこころよい、天上のしらべのように甘美な笑い声。唇を曲げる角度も、我ながらほれぼれするほど、申し分ない。
美しすぎる存在は、罪つくりなものなのだ。
「きみの書いた小説を読ませてもらったよ。文芸部の冊子で。実にすばらしい幻想世界だね。ひきこまれたよ」
「そいつは光栄だね。周囲は好感をおぼえなかったみたい。ほとんど黙殺されたよ」
「きみの美意識を理解できないあわれな連中は、ほうっておけばいいさ。ときに、美術部と漫画研究部がもともと同じものだったって知っているかい」
「初耳だ」
以前は、漫研部は存在しなかった。美術部の趣向に違和感をおぼえる者が、部から独立してつくったのが、三年前のことだ。文芸部の部室を半分借りる形で。
「ぼくはわかれて正解だったと思うよ。あのように下品で稚拙な作品を、常に目の当たりにするなんて、耐えがたいからね。
きみも、そう思うだろう? だからこそ、文芸部をやめたんだろう?」
「よく知ってるな。おれが部をやめたのは、昨日の話なのに」
ぼくはかがやくばかりの魅惑的な笑顔を見せた。
「実は、きみのことは、我が部はかねてより注目していたのだ。どうだろう、美術部へ来ないか。入部してほしいとは言わない。客人として迎えよう。手厚く遇する所存でいる」
「おれが?」
惑乱を隠せない季耶君に、ぼくは説明した。
「我々は新しい芸術を模索している。そのためにも、きみの感性を貸してもらいたいのだ。こころざしを同じくする者として、ぼくはきみを見こんだ」
「だけど、おれは、絵画なんてさっぱりだぞ」
季耶君はためらいを捨てきれていない様子だった。
さもあろう。誰も知らない美の世界に踏みこむには、勇気がいるのだ。孤独な戦いを繰り広げてきたぼくには、季耶君の悩ましい心が痛いほど伝わってくる。
ぼくは壁に背をあずけた。肩の角度で、自分がいかに苦悩しているのかを表現する。さらにまつげを伏せ、目もとに憂いのかげりを落とさせた。
「ぼくは美を探求している。きみにもわかってもらえるはずだ。表現の方法は違っても、我々は共通して、新しい世界を創造することに心血をそそいでいるのだから」
すると、季耶君は。
ぷうっと吹き出した。唖然、呆然とするぼくの前で、なんと、おおっぴらに笑いころげているではないか。いったいどうしたことか。
「ごめんごめん。悪気はないんだ」
ぼくはそのとき、傷ついた表情をうかべていたに違いない。はなはだ不本意な表情ではあるが、これも、繊細でいたいけな少年というあらたな魅力につながるかも知れない。よし、帰宅したら鏡の前で練習しなくては。
それに、いにしえより、天才というのは後世になって認められるものなのだ。存命中はひたすら、世間の無理解にあらがいつづけるほかない。おのが信じる道に殉じ、最後は独りぼっちの死を遂げるのだ。
季耶君のせいでも、誰のせいでもないのだ。時代がぼくに追いついていないだけなのだから。
「いやー、あっぱれだよ、その心意気。おれ応援しちゃうよ。陰ながらね、あくまでも」
「おお、小園君じゃないか。七瀬さんちに下宿している幸せ者め。このこの」
ぼくがつかのまの回想からさめたのは、季耶君がぼくの肩に腕をまわし、頭部をげんこつでぐりぐりしてきたからだった。
「お連れがいるのかい」
「うん。おれの師匠の春日玲先輩と、一年生の飛鳥瑞樹君」
ぼくはそちらに眼をやった。その刹那、稲妻に打たれたかのような衝撃が全身を走り抜けた。ぼくは言葉をなくし、愕然と立ちすくんだ。
春日玲さん。つんとそっぽを向いた、誇り高い横顔。君臨する高潔な王者を思わせる、辺りを圧倒する威厳と風格。すらりとした肢体。
飛鳥瑞樹君。無機的かつ植物的な、硬質な美しさ。何ものにも染まることのない、俗世からかけ離れた、水のように透き通った存在感。
ああ、やはりぼくは美の神の寵児、選ばれた人間だった。純白の翼を持った子供たちが清らかな歌声を響かせ、インスピレーションを吹きこみながら、ぼくのまわりを飛びまわる。
ぼくの名は、小園深晴。美を追い求める旅路ははるかに遠く長く、まだまだ終わりそうにない……。