ふるふる図書館


第二部

第二話 祖母と孫とその逢瀬



 摩天楼の夜景を一望のもとに見下ろせる、ホテル最上階のレストラン。地上からの位置も高いが、飲食代もべらぼうに高い。
 入り口でサングラスをはずして名前を告げると、奥まった席に通された。壁一面がガラス窓で、ラメやスパンコールを散りばめたような風景が広がっている。
 すでに着席していた人物が、春日玲(かすがれい)の姿を認めて手を挙げた。
 山城迪香(やましろみちか)。和服の似合う、上品そうな老婦人である。背筋がぴんとのび、古希をすぎているとはとても見えない。
 玲は一礼した。場所に合わせた服装をしているので、おのずと洗練されたものごしになる。
「玲さん、どこか顔だちがやわらかくなったみたい」
 椅子に腰かけると、老婦人がおだやかにほほえんだ。
「そうですか?」
 玲は、眉を上げてたずね返した。まったく思いがけない指摘だったので、得意のポーカーフェイスをつい忘れてしまう。それに彼女とは、ずいぶん古くからのつきあいである。
「学校生活が楽しいのね。お友達もできて。よかったら聞かせてちょうだい。今日は創立記念日でお休みだったのよね」
 控えめな依頼だが、彼女に金銭面で援助してもらっているので、玲が学校の様子を報告するのは道理といえた。
「授業は、いつもかわりばえしませんね」
「ふふ、よく休んでいるのね。まあ、あなたには退屈でしょう。授業に出る必要のない頭を持っているのですもの」
「すみません」
「いいのよ。そうさせたのはわたしの責任でもあるわ。演劇同好会は、その後いかが?」
「順調です。森川知世は、とろくて不器用、どんくさくて勘が悪くて、おまけに演劇に対してはずぶの素人ですが、そのぶん研究熱心ですね。
 飛鳥瑞樹(あすかみずき)は、ふだんはぼうっとしていて何を考えているのかまったくうかがい知れないですが、演技をすると別人です。
 賛同者も増えてきました。顧問につけた木野忍(きのしのぶ)という教師は、森川知世の伯母のファンという不純な動機ではありますが、協力はしてくれています。
 滝沢季耶も、のんきで単純、お調子者ですが、同好会に好意的です。このままいけば、予定通り夏には発表できそうです。
 ただ……」
 玲はやや言いよどんだ。めずらしいことである。山城迪香が言葉をひきとった。
「気になるのね。『あの人』が」
「父は、このことを知っているのでしょうか。見に来たりはしないでしょうか」
「今のところ、それはないと思うけれど」
「そうですか」
 玲は、安堵とともに軽い失望を味わい、我ながら意外に思った。自分もしょせんは、十七歳の若造にすぎないのか。
 父との決別は、完全にすんだつもりだったのだが。それに、父が演劇同好会のことを知れば、ひと悶着もちあがる危険性があるのだが。
「だいじょうぶよ、うまくいきます。あなたの脚本もすばらしいし、成功することうけあいね」
「血筋、でしょうかね」
 玲は肩をすくめ、ほろ苦い笑みをもらした。
「玲さんは、演劇をこころざす気はないの」
「ええ、ありません。父がいる限りは無理でしょうしね」
「国外で活動するという選択もあるわ」
「そんな情熱は、ぼくは持っていませんよ」
「そう。惜しいわね」
 給仕が現れたので、会話は中断された。

「那臣(なおみ)さんはお元気かしら。史緒(ふみお)さんも、桜花高校に入学したのよね」
「ええ。愉快な学園生活を提供してくれていますよ」
 生徒会長の名のもとに、演劇同好会の活動を阻止しようと血道をあげる、煙たいくらいエネルギッシュな綾小路(あやのこうじ)那臣。
 変人ばかりに囲まれているために、かえって浮いている良識派の綾小路史緒。
 この兄弟にまつわるエピソードを、玲がユーモアをまじえて披露すると、山城迪香は、あやうくワインをこぼしそうになるほど笑った。
「ふたりともいい子たちなのね、健全だわ」
「綾小路の遺伝子が入っていないから。父と血のつながりがないからでしょう」
「あら」
 笑みを絶やさなかった山城迪香が、このときだけ真顔になった。
「玲さんだっていい子よ。そんなことを言うものじゃないわ」
「まさか、ぼくは違いますよ。父をどんなふうに陥落したか、あなたには察しがついているはずです」
「ええ、ついています。それが何のため、誰のためになされたか、ということはね」

 山城迪香が話題を変えた。
「玲さんは、卒業後のことは決めたのかしら。本当にお仕事につくのであれば、いくらでもお世話はできるけれど」
「はい、ぜひそうさせてください。お願いします」
「わたしの援助を重荷に感じて就職するのだったら、よしてちょうだい」
「そんなことはありません。一刻もはやく、母から独立したいのです」
「それはわかるわ。でも、ね。知世さんはどうするの」
「演劇学校に入ると言っていますから。ひとりでだいじょうぶです」
「知世さんは、あなたを必要とするかも知れない。それに、『あの人』の息のかかった学校に行く可能性もあるわね」
 ごくさりげなく爆弾を投げつけられて、流れるような手さばきで操っていた玲のナイフが、がちゃんと音を立てた。
「でも、玲さん、よく言っているわよね。知世さんは生意気に口ごたえばかりするし、小癪でしゃらくさい口のききかたをするし、少しも可愛くないって」
「……たしかにそう言いました」
「それなら安心ね?」
 ちっとも安心じゃない! と玲は反論した。胸のうちで。
 山城迪香は、いかにも邪気がなさそうに、にこにこしている。今の発言は絶対わざとだ、まったくもって意地悪な……。

 食事がすむと、山城迪香は封筒を出して、玲の前に置いた。
「今日のアルバイト代よ」
 玲は、そっと封筒を押しもどした。
「本当に、あなたには感謝しています。いろいろとよくしてくださって。でも、もう充分です。それに、食事をご一緒しただけで、こんなにいただくわけには」
「『あの人』とわたしの娘の間にできた子は、玲さんをひどく傷つけたわ。あなたの腹違いの兄なのに」
「それは、あなたの責任ではないでしょう」
 玲は、七歳のときに一度だけ会った異母兄を思い出した。薬物におぼれ、顔も名前も知らない父の手がかりをたずねた玲を嘘つき呼ばわりし、乱暴狼藉をはたらいた高校生。
 数年後、父の車を乗りまわし、ありふれた事故であっけなく命を落としたという。その死を悼む義理など蟻んこほどもないが、気品と教養あふれる美形の天才少年に成長した自分の姿を見せつけて、ごまめの歯ぎしりさせてやろうという計画がおじゃんになったのは残念だと思う。
「わたしはすでに、綾小路とは縁もゆかりもない人間よ。『あの人』は別のひとと再婚した。那臣さんと史緒さんのお母さんとね。
 わたし個人が、あなたを気に入っているの。教えられることをすべて教えて、あなたが優雅に洗練されて、垢抜けていくのを見るのが楽しかった。
 あなたが本当の孫のような気がしていたの。たったひとり血のつながった孫はもうこの世にいないし、ひとり娘も死んでしまった。わたしには、もう孫なんてできないから」
 玲は目の前の老婦人に視線をそそいだ。おどろくほど小さく見えた。
「ありがとう、おばあさま」
 山城迪香は、しわを深く刻んで微笑した。
「いつか、お友達を連れてきてね。みんなでお食事をしましょう。きっとよ」

 翌日。
 登校してくる生徒たちがごった返す校門で、森川知世が軽快に走って追いついてきて、軽く体当たりしてきた。朝から元気いっぱいだ。大きな明るい瞳でまっすぐに見上げてくる。子犬かお前は。
「おはよう、玲。昨日おもしろいことがあったんだよ。お前もいればよかったのに。ほんと惜しかったなあ」
「お前のおもしろいはあてにならん」
「ううっひどいっ。お前を楽しませることを考えて、ゆうべはまんじりともしなかったのに」
 よよと泣きくずれるふりをする。
「わかったわかった。何だ」
 知世は含み笑いをして、値うちを持たせた。
「ふっふっふ。まだ教えないよーだ。お前は、何してすごしてたの?」
「まだ教えない」
「あっ、それっておれの真似?」
 知世は口をとがらせた。
「いつか教える日がくるかも知れない。きっと」
 知世のふさふさした猫っ毛を、玲はくしゃくしゃとかきまぜた。頭が小さく、低いところに位置しているのでいじくりやすい。
「何、かっこつけてんのさ」
「かっこなんてつけなくても、おれはもともとかっこいいのだ」
「おーおー、しょってらっしゃること」

20040621
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