ふるふる図書館


第二部

第一話 兄と弟とその先輩



 駅と桜花(おうか)高校の中間にある、人気の喫茶店「ハーツイーズ」は、この四月から店員として葛原純(くずはらじゅん)を雇っていた。
 純にとって、労働ははじめての経験だった。だが、たとえアルバイトといえども、職務は完璧をもって旨としたい。純はプロフェッショナルとしての自覚と誇りを胸に、日々の仕事にいそしんでいた。
 夕方である。いつもなら、桜花高校に通う生徒たちが三々五々やってくる時間帯。だが、創立記念日で休みのため、店内はがらんとしていた。
 ようやく、客がひとり訪れた。無造作にととのえた、ややくせのある髪を持つ少年だ。くっきりとした目鼻だちと大きめの口が、親しみやすく飾りけのない印象を与える。
 彼の着いたテーブルにおもむく。
「ご注文はお決まりでしょうか」
 と、純と同世代の客は、やにわに純の手をしっかとつかんで片目をつぶった。
「あなたをオーダーするよ。テイクアウトでね」
 げげ。そうきたか。だがプロたるもの、ここで狼狽を見せてはならない。どんなに歯の浮く台詞でも。
「あいにくですが、人間は売り物ではございませんので。うけたまわりかねますが」
「あ、そ。……それじゃロシアンティー。アールグレイにマーマレードでね。美しいあなたのかわりにしては、安すぎるけど」
「かしこまりました。少々お待ちください」
 ドアに取りつけられた真鍮のベルが、からんと鳴った。
 今度の客は、純の知っている人物だった。店のオーナー、七瀬玖理子(ななせくりこ)の妹の子で、高校三年生。名前は、森川知世(もりかわともよ)という。
「あ、滝沢(たきざわ)君。もう来てたんだ」
 知世は少年の向かいに座った。それから、純に向かって挨拶した。
「こんにちは、純さん。調子はどうですか?」
 従業員が、公私を混同するのは禁物だ。だがこの場合、客の側から話しかけてきたので、応じるのはかまわないだろうと純は判断した。
「ありがとう。おかげさまで、だいぶ慣れてきました」
 知世は破顔した。
「そう、それはよかった」
 知世の注文を受けて純が下がると、滝沢少年は、手にした扇子で知世を指してたずねた。
「そういう服装が好きなんですか?」
 知世は自分の体を見下ろした。ざっくりとした春ものセーターに、リーヴァイスのジーンズ、コンヴァースのハイカットシューズ。シンプルだが、細身の知世によく合う。
「どこかおかしいかな」
 知世は心細そうにたずねた。相手の値踏みするような鋭い視線に、戸惑いがちな表情をうかべる。
「いえ、とんでもない。そういったボーイッシュな身なりもすてきです。でも、もう少し華やかにしたほうが。それでは地味すぎます」
「華やかって?」
「女の子っぽいかっこうはしないんですか?」
 ちょうどおひやのグラスを口に運んでいた知世は、「ぶはっ」というような音を立てた。げほげほと派手にむせ返る。
「ちょっ、ちょっと待って。どうしてそんな。おれ……」
「おれ、じゃありませんよ」
 滝沢少年は、てのひらでテーブルをたたいて一喝した。椅子ごととびあがった知世を、なおも叱りつける。
「そんな言葉づかいはだめです。せっかくの可愛らしさが台なしです。服といい、話し方といい、自分の魅力をわかっていません」
「魅力? いやだな、おだてちゃってもう」
 まだ咳きこみながらも、顔の前でぶんぶん両手を振る知世を、ためつすがめつして、滝沢少年は腕組みした。
「性格はよさそうだし、みてくれも素材そのものも高得点なんだけどなあ。ちょっと趣味が変わったんだな、あいつ」
 そのとき、三人めの客が現れた。
「こんなところで何しているんだよ、お前」
 言うが早いか、滝沢少年の側頭部に、容赦のない蹴りを一発お見舞いする。
「いってえ。よう、遅かったな、季耶(ときや)。姫君をお待たせするのは感心できないぞ」
 季耶と呼ばれた少年は、知世をかばうように胸にぎゅっと抱きすくめた。
「陽耶(あきや)、森川先輩を泣かせたな。このいじめっ子。いびり魔」
「泣かせた? おれが?」
 陽耶と呼ばれた滝沢少年が、心外だと言わんばかりに扇子で自分をさす。
「しらをきるな、これが証拠だ。先輩のキュートでラブリーで愛くるしいもち肌ほっぺが赤くなって、涙の跡さえあるじゃないかっ」
 あわや窒息しかけていた知世は、やっとのことで季耶の腕をふりほどき、異をとなえた。
「泣いてなんかないって。早とちりだよ。水でむせただけ」
 そこで、横に立っている季耶と、前に座っている陽耶を等分に見比べ、眼をせわしくしばたたいた。
「どうして、滝沢君がふたりもいるの?」

 純の運んできたミントティーをひとくち飲み、知世はようやく人心地ついたようだった。
「双子だったとはねえ。初耳だよ。学校は別々なんだね」
「おれは男子校に興味ありません。花も恥じらう貴重な十代を、彩りも潤いもない世界に埋没させるのは、まっぴらです」
 陽耶とおぼしきほうが、きっぱり断言した。
「だったら、どうしてこの界隈に現れたりするんだよ。お前がおかしな行動を取ったら、おれだと誤解されて評判が下がるだろうが」
 よほど素行が悪いのか。
「近ごろ、お前、うちにあまりいないじゃないか。いいひとができたと思ってはいたさ。
 昨日、お前が電話で話しているのを見て、恋人との約束をしていると確信した。それで、経験豊富で弟思いのこのおれが、調査に乗り出したってわけだ。お前がむざむざ、悪い女の毒牙にかけられないように、相手を判定してやろうってね」
「というのを口実に、おれが好意を持つ人間に精神攻撃をしかけて、追い払うのが趣味なんですよ、こいつは」
 季耶はにがにがしい顔と口ぶりで、知世に説明した。
「おおげさな。おれは意地悪で陰険な小姑みたいじゃないか、人聞きの悪い。相手がかってに逃げ出すだけなのに」
 知世は身をちぢめた。
「うわあ、怖いなあ。おれは審査に合格できるかな。
 あ。でも、季耶君がいちばん好きなのは、ほかにいるからね。残念ながら。お望みなら、詳しい情報をさしあげるよ」
「ええっ。師匠を売る気ですか」
「ええっ。森川さんは、季耶のいちばん好きなひとではないんですか」
 お神酒どっくり滝沢兄弟は、そっくり同じ身ぶりで、違うことにおどろいた。知世が、どちらに反応しようか迷ったすきをついて、陽耶がたたみかけた。
「いーえ、嘘をついてもむだです。おれの眼はごまかせません。
 だって、そうして並んでいると、恋人どうしそのものですよ。それに森川さんって、もろ季耶の好みだし。もっと女の子らしくふるまえば、もうばっちり。よろこんで弟を献上します。
 いやあ、いいひとを見つけたなあ、とき。兄ちゃん鼻が高いよ」
「このばか、余計なことばかり喋るな。それに、こう見えても、森川先輩はまぎれもなく、れっきとした男の子だぞ。しかも年上だ。桜花の三年」
「男? ふん、また下手な言い逃れを」
 陽耶は、手をのばして知世の体をたしかめ、
「ほ、ほんとだ……」
 どっぷり落ちこんだ。テーブルに頭を打ちつけかねない勢いでうつぶせる。
「おれの眼はごまかせない、とはよく言えたよな」
 季耶の口ぶりは冷たい。陽耶がうめく。
「うう。おれともあろうものが、こんな不名誉な誤りを犯すとは。一生の不覚、末代までの恥。ああ、ご先祖さまに申し訳が立たない」
 知世が「まあまあ」ととりなしにかかった。
「そんなにしょんぼりしないで。おれは別に気にしていないから」
「これは、おれの沽券にかかわる問題なんですっ」
 身も世もなく、涙声をふりしぼる。
「お前の沽券はどうでもいいから、先輩に対して非礼を詫びろよ」
 たしなめられた陽耶は、ぺこっと頭を下げた。
「どうもすみませんでした。むせるほど動揺させてしまって。
 ん? あれ待てよ? どうしてまた、女装の話でそんなに取り乱したりしたんです? もしや森川さん、あなたは……」
 知世はぎくりとした。おそるおそる問い返す。
「は、はい?」
 陽耶は、周囲をはばかるように声をひそめ、口もとを扇子でかこった。
「やっぱり女の子なんじゃないですか? ある重大な秘密の使命を帯びて、男子と偽り、男子校に潜入してるんでしょ。ねっねっ、いい線いってません? あっもしかして、どんぴしゃり? だいじょうぶ、絶対他言しませんから」
「……あははは。そりゃ、どーも」
「よほどショックだったんだな、勘が鈍っているのが。現実を直視することもできなくなってるのか」
 季耶がしみじみ感懐を述べた。
「お待たせいたしました」
 純は、季耶のぶんのロシアンティーをテーブルに置いた。その間、陽耶の視線は純にくぎづけになっていた。先刻とは異なる色を帯びて。
 盆を手に純が遠ざかってから、陽耶は小声で、知世に何ごとかを言った。内容は容易に推測できた。
 つまり。
「今の店員。純さん、だっけ。ひょっとしてもしかして、男のひとってことはあります?」
 ということである。
「さあ、どちらでしょう」
 知世はとぼけてお茶をすすっている。
「たぶん、知らないほうがいいような気がする。夢が壊れるかも。ああ、でも自分を信じたい。でもでも自分の勘に裏切られたくない」
 陽耶は悲壮なおももちで頭をかかえた……。

20040621
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