ふるふる図書館


第二部

第三話 弟と兄とその同級生



 みずみずしい新緑がまぶしい季節になった。桜花高校に並ぶ桜も、すっかり若葉へと変わっている。
 放課後、下校しようと校門をくぐった綾小路史緒は、五十メートルほど先を歩く兄の後ろ姿を見つけた。
 史緒は生物学部で、毎日部活動があるわけではないが、兄はうっとうしいまでに生徒会活動に熱心だ。この時間に帰宅するとは珍しい。
 たまにはふたりで帰ろうと小走りすると、兄は気づいたそぶりもなく、道を曲がってしまった。直進しないと駅に着けないのだが。
「寄り道でもするのかなあ。あの、くそまじめで堅物の兄さんが?」
 弟は、俄然興味をかきたてられた。一定の距離を保って、兄のあとをついていく。もし見つかっても、あわてず騒がず、
「一緒に帰ろうと思って追いかけたら、兄さんの足が速くて、声をかけそこねてここまでついてきてしまったんだ」
 と言えばよいのである。
 十五分ほど歩くと、古式ゆかしい大きな洋館が現れた。色とりどりの花が咲き匂い、日本離れしたメルヘンさである。
 門の入り口で、兄が立ちどまった。しばらく躊躇してから、敷地の中に入っていく。
 玄関まで小道がつづいていた。それを渡らないと、呼び鈴がないらしい。
 史緒は門の陰に隠れて、動向を見守った。
 兄が呼び鈴を押す。
「はーい」
 若奥さまのような声が返った。
 ドアがひらく。お菓子の甘くかぐわしい香りがただよった。史緒の視界に、ピンク色の花柄エプロンが映った。
 やはり若奥さまか。
 顔へと視線を移した史緒は、あやうく声をあげかけた。
「あ、生徒会長」
 よく張った瞳をまるくして立っていたのは、兄と同年の男子高生、森川知世ではないか。
 透明感のある桜色の肌に、エプロンの色が映え、空恐ろしいほど似合っている。
 史緒の懸念通り、兄は暴走した。みるみるうちに髪の生え際まで赤くなり、知世につかみかからんばかりになる。
「き。きさまあ。何だそのなりは」
 もう。何をやっているのだか。常軌を逸した兄の行状は、弟ならずとも眼を覆いたくなるものだった。
「何だ? 何だ? 前に学校で調理実習したときは、何も言わなかっただろう」
「あのときは、黒いエプロンだったではないか。自宅では、このようなものを着用におよんでいるとは、聞いていないぞ」
 知世は、尋常ならざる兄の剣幕にきょとんとしていたが、
「あっわかった」
 相手の胸を指でつついた。
「お前、おれにガールフレンドでもできたと思ったんだ。先を越されると悔しいんだろう? その心配は無用だよ」
 知世のガールフレンドになろうなんていう度胸のある女など、いるのだろうかと史緒はいぶかった。周囲の障壁が堅牢すぎる。たとえ本人のガードが弱くても。
「それより生徒会長。お前、いったい何しにきたの」
 ようやく、兄は正気をとりもどした。興奮のあまりずり落ちためがねを直し、鞄から大学ノートを一冊取り出す。
「これはきみのだろう」
 表紙に律儀に、「英語IIC 3年5組 森川知世」とあった。ご丁寧にもサインペンで。小学生みたいだ。
「ああそうだ、忘れてた。同じクラスの根岸(ねぎし)に貸していたんだっけ」
「ずいぶんのんきだな、明日五組は小テストがあるのだろう。これがないと試験勉強できないだろうが。追試になるぞ。まあ、きみは今さら勉強せずとも楽勝なのだろうがな」
「どうしてお前が持ってたの」
「又貸しされて、我が一組にまで回っていたのだ。無断で借りていた者が自分で渡すつもりだったのだが、はなはだ心もとないと判断して、わたしが返却に出向いた次第だ。
 よくできたノートだからといって勝手につぎつぎ回覧されていると、紛失するおそれがあるぞ。気をつけるように」
 兄の忠告は堅苦しい。二十一世紀の到来を間近に控えた若者の言葉づかいだろうか、それが?
「うん。足労かけたね。どうもありがと」
 知世はにこっと笑った。くらくらとめまいがしそうなほど無邪気に。
 うわあ。兄の理性がこれ以上はじけとびませんように。史緒は思わず天に祈った。
「あ、ちょっとそこで待ってて。まだ帰るなよ」
 知世は言い置いて、スリッパをぱたぱた鳴らして奥へとひっこんだ。
 まもなく姿を現す。手には小さな包みがあった。
「はい、おやつ。今作ったばかりなんだ。勉強のおともに食べなよ。脳を使うには、糖分が必要だろう」
 予想外の展開に、兄は完全に硬直した。その手を取って、知世は包みをのせた。
「ブラウニーだけど、きらいか?」
 知世は小首をかしげて、兄の顔をのぞきこんだ。
「きみには、一年生のときにも、バレンタインデイにチョコレートをもらった」
 なぬ。それは初耳だ。史緒は内心色めきたった。しかし知世は、こともなげに言った。
「ああ、おぼえていたのか。男子校だからせめてもと思って、クラスのみんなに手作りして配ったんだ。去年と今年」
「クラスのみんな、ね」
 眼に見えて意気消沈する兄と対照的に、史緒はほっと安堵した。
 知世は前かがみに、ドアにもたれかかった。
「みんな何がしかのお返しをくれたのに、お前はくれなかったなあ。迷惑だったのか?」
 長いまつげごしに上目づかいして兄を見た。すねたように唇がつきだしている。
「断じて違う。お返しが思いつかなかったのだ。一か月間熟考したのに」
 知世はくすくす笑い出し、むきになった兄の肩をたたいた。
「そんなに重く考えなくてもよかったのに。アポロチョコ一個というお返しもあったぞ。それはないよなー、せめてチロルチョコだよな。
 ただ、お前、入学したてのころ、おれに敵意むき出しだったからさ。この髪の色が気に入らなかったんじゃない?」
 髪を茶色にすることがありふれたおしゃれとして浸透するのは、まだ先のことであり、このころは不良の代名詞だった。知世の髪は天然のきれいな飴色なのだが、いやがおうにも人目に立つ。
 あまつさえ、地元の出身でない知世に主席入学の座を持っていかれたことも拍車をかけたのだろう、と史緒は推測した。我が兄ながら、了見のせまい人物である。
「森川知世。今度のバレンタインも配るのか」
「卒業まぢかだろう。みんなが学校に来ることもないから、今回はなしだな」
「そ、そうか」
 兄はもごもごと口ごもる。この甲斐性なしが。史緒は、なりゆきにやきもきしつつも、うらはらに、だらしのない兄を心中で叱咤激励するのだった。
「そのころは、バレンタインどころではないんじゃないかな。おれからもらってもうれしくないよ、たぶん。お前だって、いろいろ忙しいだろう」
「いや。その……きみも先ほど言っていたように、体や脳を使うと血糖値が下がるからして、甘いもので糖分を補うのは悪い考えとは言えないわけであり」
「それもそうだね」
 知世は素直に納得する。
 ああ、じれったい! 史緒はついつい握りこぶしを固めた。
「だから、その……」
「何だ。欲しいのか。それならそうとはっきり言えばいいのに」
 知世はめずらしく、正しく勘を働かせ、ずばりと核心をついてのけた。からかうような笑みをこぼす。
「いいよ、作ってあげるよ。高校生活も最後だから、記念にね」
 晴天の霹靂!
「ふうん。お前が甘いもの好きとは知らなかった。そんなに恥ずかしがることないのに」
 やはり、知世の認識はずれていた。

 史緒はもうしばし、植えこみから出るのを待つことにした。立ち去った兄のあの様子では、周囲のことなど見えやしないだろうが。
 電柱にぶつかったり、車にひかれたりしないといいけど、と兄のことをおもんぱかっていると、話し声が聞こえてきたので、反射的に身をひそめた。
 やってきたのは三年生の春日玲、二年生の滝沢季耶、一年生の飛鳥瑞樹。性格上の共通点を見つけるのが、しごくむずかしい三人組だ。
 彼らが来ることがわかっていたから、知世は無防備に戸を開けたに相違ない。
「今日は伯母さんが留守で、森川先輩がおやつを作ってくれているそうですよ。楽しみですね」
 季耶が話しながら、呼び鈴を鳴らす。返事を待たず、玲がさっさと扉をひいた。
「何をしている、森川」
 張りあげなくてもよく通る、玲の声。
 知世は、玄関の壁にしどけなくもたれかかっていた。頬を押し当てるようにして。
「先輩、もしかして酔ってません?」
 とろんとした眼をあげて、知世が応じた。
「あれ? ううん、そうなのかな。お菓子作ったら、ブランデーが余ったの。ちょっと飲んじゃった。ほんとにちょこっとだよ。そうしたら、何だかぽかぽかしてきちゃった」
 シャツの襟もとをゆるめようとすると、床にノートが落ちた。
「あれれ? ノートがこんなところにある。変なの」
 しばらく考えこんだが、
「まあ、いいか」
 からから笑い出した。底抜けに朗らかに。
 史緒は、兄への同情を禁じえなかった。知世の、兄に対するいつにない人懐こい態度も、アルコールのせいだったとは。しかも、約束のことまで記憶にないとは。
 だが立ち聞きしていた以上、真相を兄にも知世にも話すわけにはいかない。
 しらふの状態の知世は、とうてい信じてくれないだろう。
 ひとり苦悩を深めつつ、史緒は静かにその場をあとにした……。

20040621
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