ふるふる図書館


第一部

第九話 青春はうるわし



 放課後、桜花高校の校舎の屋上は、まるまる春日玲の指定席になっている。先に陣どったり、じゃまをしたりしようという命知らずはいない。
 壁にもたれて座り、やわらかくかすむ春の空を眺めつつ、玲はひとり煙草をふかしていた。
 実は、玲はあまり煙草が好きではない。甘いもののほうがはるかによい。だがこのときは、むしょうに煙草が吸いたい気分だった。
 くれぐれも真似しないように。煙草は二十歳になってから。
 ドアが不意にひらいた。
 教師だとしても動じはしないが、やってきたのは生徒だった。一瞥をくれ、すぐに視線をもどした。また一服する。
「何だ、お前か」
「何だじゃありませんよ師匠、ご挨拶ですね。いいんですか。昨日森川先輩にあんなことを」
 滝沢季耶が、気遣わしげにたずねた。
「本当のことを言ったまでだ」
「うーん、師匠の口から出ると信憑性がありますねえたしかに。っと、違った、そうじゃなくて。
 森川先輩、今日は学校を休んだそうですよ。入学以来無遅刻、無欠席の記録を樹立していたあのひとが。あれから話してないんでしょう。このままじゃあ」
 季耶が言葉をとぎらせ、ためいきをつくのを無視して、玲は吐いた煙の行方をたどっていた。
 季耶は肩をすぼめた。
「いいのかなあ。あのひとが他人の毒牙にかかっても。
 師匠が身をひいたら、確実に生徒会長の魔手に落ちますね、くわばらくわばら。ほかにも、ひく手あまたでしょうけれども。そうなる前に、おれが取っちゃいますよ」
 思わず煙にむせそうになった。フィリップモリスを携帯灰皿に押しつぶす手つきがいささか乱暴になるのを禁じえない。
 ふたたびドアがひらき、あらたな闖入者の存在を知らせた。
「玲」
 校内で、玲を下の名前で呼べる人間は、たったひとりしかいない。
 はたして、そこにいたのは森川知世だった。放課後だというのに、わざわざ登校してきたのだろうか。
 躊躇のない足どりでまっすぐに歩み寄り、立ちどまった。呼吸が荒い。
「玲、お前よくも」
 知世は言いさして、唇をかんだ。握りしめたこぶしをうちふるわせ、しゃがみこんで玲の胸倉をつかんだ。
 殴るつもりなら、それでよかった。しょせん、百戦錬磨の玲にはおよびもつかないへなちょこパンチだ。ダメージなんて皆無にひとしい。肉体的には、の話だが。
 知世は怒りに燃える、明るいはしばみ色の眼で、玲をぎゅっとねめつけた。
「よくも、おれのぶんのシュークリーム食べたなっ。滝沢君のおみやげを」
「……は? 何だって」
 玲はきょとんとしてしまった。
「とぼけるな、お前が持って帰ったことはわかってるんだ。いちごクリームは期間限定だったんだぞ。おれだって食べたかったのに」
 うるうる涙目で、シュークリーム返せーっと叫ぶ。
 玲はしばらく、表情の選択に困った。
 数秒のち、盛大に吹きだした。ひとしきり笑ってから、大きく吐息をついて顔を片手でおおった。
「お前というやつは、正真正銘、筋金入りのあほうだな、知世。おれと縁を切る絶好の機会だろうが。なぜ、そんな自然におれの前に現れるんだ」
 昨日、十年前と同じまなざしをして、十年前と同じように背中を向けたのに。
「おれはね。生徒会長の予言通りになるのはいやなの。
 お前がおれの知らない過去で何をしていようと興味はないし、それに、お前の憎ったらしい言いぐさは、こっちは慣れっこなんだよ。おかげさまでね。
 だいたい、演劇同好会をつくれってすすめた、もとい、そそのかしたのはお前だろう。きっちり責任とってもらうぞ。役者と顧問を見つけてきて、脚本も書いたから自分の役割はもう終わったなんて逃げるなよ」
 たまには鋭いところをつく。こざかしい。知世のくせに。
 玲の襟をつかんだままぷんぷんしていた知世が、表情をふとやわらげた。
「おれは、お前に友達だと思われているなんて、一度も考えたことはないぞ。それなのに、お前が昨日わざわざあんなことを言ったのは、あれえ? もしかして、本当は、おれのことを友達だと思っているのかな?」
 日ごろのうっぷん晴らしか、思いきり底意地の悪い笑顔である。玲は不覚にもほんの刹那、返答に窮した。
 だがすかさず逆襲。
「もちろん、友達じゃないさ。お前はおれのおもちゃだ。だから、おれ以外の人間には決していじらせないからな」
「はあ?」
 なりゆきを見守っていた季耶が、紅潮した顔を両手でおさえて身もだえし、のたうち回った。
「いやーん。さすがは師匠。まだまだおれなんかとてもとても」
「さすがって何のこと? どうしてそんなに興奮してるのさ」
 この鈍感な、うすらとんかちのすっとこどっこいの大ぼけだけが、まったく話を把握できていない。いかにも知世らしい、と言うべきなのだが、
「あいたた。いきなりぶつなよ」
 ぽかりと一発殴っておいて、玲は知世の胸に額を当てた。
 後悔なんてものはおよそ縁がない玲だが、ふと思う。十四歳のとき、知世のような人間が身近にいたなら、父と自分をおとしめる手段はきっと取らなかっただろう、と。
「そこで何をしている、森川知世。用がなければ、ただちに帰宅するべし。たとえ先生と文部省と教育委員会が許しても、このわたしが許さんぞ。不届き者め。ええい天誅っ」
「まったく、言うに事欠いて難くせつけるのはやめてってば」
 綾小路那臣が、弟の史緒のいさめもものともせずに、どやどやと乱入してくる。玲から知世を引き離そうとおおわらわである。
「ああっいたいた森川。なぜ昨日は家でけいこしなかったんだ」
 今度は演劇同好会の顧問、木野教諭である。おかげでさみしい休日だったと、恨みがましい口ぶりで抗議する教諭を、知世は白眼視した。
「顧問になってくださったのは本当にありがたいですとも。ええ、ええ。わが会の体裁をととのえる大きな一歩ですからね。
 でも、伯母は断固あげませんよ。それとこれとは話が別です」
「そのうち、森川先輩に対象が移ったりして。顔が同じだからいいかってことで」
「うわ、なんてこと言うんだ、滝沢君」
「ううむ。たしかにお前、玖理子さんそっくりだな。改めて見ると」
「どうしてそこで、目つきがあやしくなるんですか。あっどこ触ってるんですかっ」
 かたわらで、今にも昏倒し、その場にくずおれかねない那臣を、史緒が懸命に介抱している。
 珍妙な兄弟がいると苦労が絶えないようだ。万一玲が義理の兄弟だと知ったら、いったいどうなることやら。
「森川先輩。今度お庭を見におじゃましてもいいですか? おいしい和菓子があるんですう。持っていきますね」
 のんきにやってきた入江彰の隣では、飛鳥瑞樹が知世のそでをひき、無言で芝居の練習を催促している。
「おい、そこで楽しく傍観してないで、助けてくれよう」
 てんてこ舞いの知世が、玲に向かって悲鳴をあげた。
 玲は聞こえないふりで、連中を眺める。いつもと変わらず、能天気であほうばかりの連中を。
 彼らとのつきあいは、まだとうぶんはつづきそうだ。
 それでもまあ、よしとしよう。しばらくは、退屈せずにすむことだろう。
 玲はポケットから紙を一枚取り出した。先ほどもらってきたばかりの退学届だ。てばやく折り、紙飛行機をこしらえた。
 手首をひるがえすと、紙飛行機は、かすかに夏の匂いがただよいはじめた空に吸いこまれていった……。

20040621
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