ふるふる図書館


第一部

第八話 恐るべき子供たち



 彼は、年の離れた少年との逢瀬を重ねていた。
 舞台の演出家や脚本家として名前の売れた著名人である彼だが、あまりマスコミに登場することはなく、顔は一般にはほとんど知られていない。
 逢瀬に用いるのは、国内でも指折りの高級ホテルの一室。各界の大物にひんぱんに利用されている格調高いもので、下種なかんぐりに不快な思いを味わうことはない。
 少年と知り合ったのは、三か月ほど前。今年の四月から教鞭を取ることになった専門学校でだった。さまざまな芸術分野を専門課程に設けている、わりと有名な学校だ。その少年は、絵画科で絵のモデルのアルバイトをしていた。
 そこに通学している若者たちは、思い思いの服装をして、キャンパスを闊歩している。体のあちこちにピアスをつけたり、髪の色とスタイルが奇抜だったり、手作りとおぼしき装飾過多な衣服を着用していたり。
 ごくごく普通の服装で出入りしている少年は、逆にめだつ存在だった。シンプルな服装が、かえって容姿のよさをひきたてていた。
 良家の子息めいた顔立ちと、こぎれいとはおせじにも形容しがたい服とがアンバランスで、彼の眼をひくにはじゅうぶんだった。なぜ絵のモデルなどをして金銭を稼いでいるのかにも興味をそそられた。
 その夕暮れは、激しく雨が降っていた。少年は学校の玄関にたたずみ、無心に外を眺めていた。すらりとしたシルエット。雰囲気はおとなびているが、体のラインはまだ幼い。いったい、どんな絵を描かせているのだろう。
「傘がないのかい。駅まで送って行こうか」
 声をかけると、少年は戸惑いがちな表情をうかべながらも、彼の傘に入った。
「濡れるよ、ほらもっと中においで」
 細い肩に手を回すと、素直に身を寄せてきた。彼は車のドアを開けてやった。赤いフェラーリ。うながされるまま助手席におさまったが、どこかそわそわと落ち着かなげなようすが、ほほえましくういういしい。
 名前をたずねると、「レイ」とだけ名乗った。
 その名に聞きおぼえがあった。しかし、隣に座っている少年がその人物だという確証はない。
 しばらくすると、少年の舌も表情もほぐれてきて、笑顔さえ見せるようになった。雲間から太陽の光がさしたように感じた。お互いに会話を楽しんでいることが伝わってきた。
 芝居について、豊富な知識を持っていることがおどろきだった。頭の回転の速さ、感性の鋭さが、言葉のはしばしから察せられた。新しいインスピレーションを彼に与える。
 彼は少年をすっかり気に入ってしまった。芝居の道に進むつもりなら、世話してやろうとすら考えた。だが少年は言った。
「どんなに舞台が好きでも、ぼくは好きなことをして生活していく余裕なんてありません。
 ぼくの家は、母子家庭なんです。父は、ぼくが生まれる前にいなくなってしまって。母は体が弱いし、年齢的に働くことができません。血のつながりから言うと、祖母にあたる人ですから。
 生みの母は、ぼくを産んですぐに自殺しました。ぼくは母方の祖母に引き取られて、養子になったそうです。
 育ての母は、ぼくをきらっています。一度だって、やさしい言葉をかけてくれたことも、笑ってくれたこともない。好かれたくて、それでも小さなころはいろいろと努力したんです、まったくのむだでしたけど。生みの母だって、ぼくのことはどうでもいいから、ぼくを残して死んでしまった。ぼくは、誰にも愛されてない」
 信号が赤になり、車を停めた。雨音がふたりを包みこむ中、少年は彼の瞳を、もの言いたげにじっと正視した。
「そんなことには、もう慣れているけど、今日みたいな日は思うんです。家に帰りたくないって。誰もぼくを待ってくれてる人なんかいないから。帰りたくないんです、先生」
「悪い子だね」
「悪い子ですか」
 少年は悲しそうに、秀麗な眉をくもらせた。
「ああ悪い子だ。そんなことを言ってはいけないんだよ、このわたしにね」
 あの「レイ」だ、と彼は直感した。『街』では有名だ。男を次々に骨抜きにし手玉に取る小悪魔と、たいそう悪名高い。
 わかる気がした。本人の意図はまったく違うのだろう、男をたぶらかす小悪魔にはとても見えない。それなのに保護欲をかきたてられる。のめりこんでみたくなる。すすんでおぼれたくなる。
 そんなわけで、彼は「レイ」に入れあげることになった。

 わがままは何でもかなえてやると言ってあったが、何ひとつとしてねだったりしなかった少年が、突然頼みごとをしてきた。いつものホテルの一室だ。
 しかもその内容は、おいそれとかなえられるものではなかった。
 桜花高校の演劇部を廃止してほしいというのである。たしかに、彼はその部の舞台を手がけていたし、権力をもってすればできないことはなかったが。しかし。
「先生。ぼくひとりだけを見てほしいんです。誰にも先生を取られたくない。だって先生は、才能のある高校生を可愛がっているんでしょう、世に出してやると言って。ぼくと同じように」
 うなだれる少年の肩を、やさしく抱きよせた。
「すまなかった。お前の気持ちに気づいてやれなかった」
 耳もとでささやくと、少年は背筋をびくりとこわばらせ、するりとその手をすり抜けた。
「先生はずるい。ぼくはあなたひとりだけと決めているのに。もう傷つきたくないんです。ぼくだけじゃ満足できないっておっしゃるなら、ぼくは……先生のそばにいられない」
 ふちが赤く染まり、涙をいっぱいためた眼がきれいだった。ややあって、彼は折れた。
「お前の言う通りにしよう。約束する」

 桜花高校に問い合わせ、演劇部が廃止されたことを自宅の電話で確認すると、春日玲は吐息をついてその場にうつぶせた。
 彼のもとで愛情を受けることも、金品を貢がれることも、有名人になることも興味がない。ただ、演劇部が抹消されればよかった。そのために彼に近づいた。自分をえさにして。
 母親は、彼の子である玲をもうけ、彼に捨てられ、出産後に自殺した春日小枝(かすがさえ)という名の女優の卵だった。そうと知ったときから、玲の人生は軌道を変えた。母は、舞台の役を得る代価として、父に体を預けたのだ。
 出生が判明したのは、偶然母の日記を読んだためだった。七歳のときだった。その夜は眠れなかった。
 日を置かず、桜花高校の演劇を見に行って、当時演劇部の部長をしていた彼の息子に会った。
 だが相手にもされなかった。異母兄にも、ほかの部員たちにも。薄汚い、嘘つきのがきだとさんざん罵られて、暴力を振るわれて、楽屋の外に放り出された。
 兄が、父に玲のことを伝えていなかったのは、あのとき楽屋にいた者たちはみな、酔っていたせいだ。アルコールではなく、薬物で。
 兄には、感謝しなくてはならない。会わなかったら、玲は平凡な子供のままだっただろう。外見も、内面も。
 父の家族になりたいと思えなかった。財産も認知もいらない。だいたい、父の本名の苗字は典雅すぎて、名乗る気になれない。
 想像すると、似合わなすぎて噴飯ものだ。綾小路玲、だなんて。
 ようやく、茶番の幕をおろすことができる。父の趣味嗜好にそった、純情でうぶで繊細な少年の仮面も捨ててしまえる。
「さようなら、お父さん」
 机のひきだしから、ハンカチを取り出した。マーガレット模様の、桃色のハンカチをじっと見つめて、玲はつぶやいた。
「間に合ったんだ……」
 窓の外では、蝉たちが間断なく鳴きつづけていた。あの日と同じように。

 桜花高校の舞台裏から明るい日光のあふれる外にもどると、ひとけのない建物の陰。
 演劇部員の高校生たちから罵倒され、狼藉を受けたばかりの七歳の玲は、呆然とうずくまっていた。
 心も世界も凍りついて、何も感じられない。じりじりと肌を焦がす太陽の光も、うるさく鳴きたてていた蝉の声も、はるかかなたに離れてしまった。
 一瞬でも甘い夢と期待をいだいた自分が、浅はかだったのだ。養母とふたりっきりの、あの息のつまる家から抜け出せるなどと。
 どのくらいじっとしていたのか、近づいてくる軽やかな足音が聞こえ、眼をあげた。
 同年くらいの子供だった。夏だというのに白すぎる肌をしている。
 ブラウスの大きな襟と、つばの広い帽子に、揃いの桃色のリボンを結んでいる。フランス人形のような身なりだった。
 子供は玲に気づくと、ポシェットからハンカチを取り、玲にさしだした。ふわりと花の香りがした。
「だいじょうぶ? 血が出てるよ」
 玲が動かず、返事もせずにいると、子供は地面にひざまずき、ハンカチをもった手を玲の口もとにのばした。
 玲はハンカチを払いのけた。地面に落ちたハンカチを拾い、相手はなおも玲の傷口を清めようとした。
「触るな」
 玲はその子を押しのけた。細い体はいともあっけなく突き飛ばされて、きれいな服が土に汚れた。
 子供は体を起こすことも忘れて、玲を見つめた。大きな瞳をまるくみひらいて。
 自分の純粋な優しさや親切を、じゃけんにつっかえされたことが一度もなかったのだろう。そんな相手に小さないらだちと大きな後悔がつのり、玲はまともににらみつけた。
 ゆきずりにもかかわらず、自分をはじめて気遣ってくれた、かよわげな子供を傷つけた自覚に胸をえぐられながら。
「ともよちゃーん。どこにいるの? もう行くよお」
 場違いに朗らかな複数の女性の声が、しじまをやぶった。
 子供は立ち上がり、無言で駆けだした。玲の視界のはしで、服のすそが蝶のようにゆれて踊り、遠ざかった。
「ともよちゃん、舞台裏に行ってたの。よほど劇が気に入ったんだね」
「この学校に入ったら。演劇部にも入ったらいいんじゃない」
「あははは。ともよちゃん、今七つだよ。八年も先じゃないの」
 快活で屈託のない話し声が小さくなり、玲は取り残された。忘れられたハンカチが、ひっそりと落ちていた。
 アイロンを当てられ、きちんとたたまれた清潔そうなハンカチを手に取った。甘い香りが鼻腔をくすぐる。マーガレットの模様が、にじんでぼやけた。
 みじろぎひとつせず、マーガレットの花畑をにらみつけたまま、ただただ泣きつづけた。

 玲は橋の上から、夕焼けにきらきら反射する川を眺めていた。  偏見も、たまには正しいことがある。綾小路那臣が昼間、川辺で言ったことすべては的中していた。
 ずっと前から、重々承知していたことだ。純真無垢な人間と友人でいられる資格などないのだと。母と同じく、目的を果たすためにはどんな手段でもとれる自分が。
 茶番の幕が本当におりたのは、今日だったのかと思う。
 ずっと借りたままになっていたハンカチも、ようやく持ち主に返すことができた。川辺で誰にも気づかれないうちに。
 当人は、十年前に出会った子供のことなど、きれいさっぱり忘れているだろう。いやむしろ、おぼえていられてほしくない。
 十年前の誓いは、すべてやりとげた。これで終わりだ。
 自分には最初から何もなかった。あのころにもどるだけだ。ただ、それだけにすぎない。
 それでも玲の手は、無意識にポケットをまさぐっていた。すでに自分のもとにはない、あのハンカチを求めて……。

20040621
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