ふるふる図書館


第一部

第七話 仮面の告白



 春らんまん。うららかな春の日曜日。
 乳色がかったブルーグレーの空に、ひばりののどかな鳴き声がのびていく。川面をわたり、頬をなでる風がまことにこころよい。
 川辺には、れんげだの菜の花だのたんぽぽだのなずなだのはこべだの、いろんな花が咲いている。よもぎがやわらかく萌えている。紋白蝶がたわむれている。
 ふんわりしたにおいを胸いっぱいに吸いこみながら、今日もいい一日になりそうだとうれしくなった。
 桜花高校の演劇同好会のふたりの姿を見つけ、滝沢季耶は小走りに土手を駆けおりた。
「やあ。滝沢君」
 飛鳥瑞樹に話をしていた森川知世が振り返り、にっこりと笑いかけた。細い髪が日光に当たって、ほとんど金色に見える。
「こんにちは。差し入れ持ってきました」
「あっ、『カンパニュラ』のシュークリームだ! 大好きなんだ。いつもすぐに売り切れるんだよね」
 店のトレードマーク、つりがねそうが描かれた箱を見て、知世がこおどりして礼を述べる。
 季耶はまわりを見回して、がっかりした。
「春日師匠はいないんですか。せっかく師匠のぶんも買ってきたのに」
「あいつは気まぐれだから。おれにも行動が読めないよ」
「そうですか。部室よりも森川先輩のそばのほうが、あのひとが出没する可能性が高いと思って、それで文芸部をやめたのに。
 あれ、木野氏も来てないんですか。怠慢だなあ」
 教諭の木野は、いまや演劇同好会の顧問におさめられていた。
 春日玲がおもに話をつけたという。知世の伯母への弱みにつけこんだのだろうと、季耶にも容易に推測できた。
「うちの伯母に会えないなら来ないよ。それがめあてで顧問になったんだから。いつも我が家で会合をひらいてあげる必要もないと思って、今日は外にしたんだ。せっかくのいい天気だしさ」
 知世は台本を見せてくれる。玲が書いたものだそうだ。これでもかこれでもかというほどの多芸多才っぷりだと、季耶はほれぼれと台本を眺めた。
「夏までに仕上げるつもりなんだ。おれが桜花高校の演劇部を知ったのも、夏の発表会でだったから。同じ舞台を使えるなんて、想像しただけでどきどきしちゃうな」
「ひとり芝居なんですね」
「うん。瑞樹君が全部演じるんだ。すごいよね」
「森川先輩は出演しないんですか」
「おれは裏方が好きだからね」
「ええっもったいないなあ。先輩は、みんなのアイドルなのに。自覚が足りないです」
「そんなまさか。いやだなもう」
 知世はめったやたらに両手をぶんぶん振って否定した。色白なので、顔の上気が不憫なほどはっきりわかる。実にからかいがいのある人物である。
「それに、滝沢君は春日の追っかけじゃないか」
「おや。おれは美しいひとだけではなく、可愛らしいひともみんな好きなんです。たとえば森川先輩、あなたのような」
 季耶がすまして言ってのけると、知世の狼狽はさらにひどさを増した。
 その様子が、たまらなくほほえましいのである。年上ということをついつい忘れがちになる。もうしばらく堪能していたかったが、このあたりで勘弁してあげることにした。
「そうそう、昔の演劇部って、代々芸能関係とつながりがあったそうですね。部員の中には、役者としてデビューしたひとも多かったらしいじゃありませんか。もしかしたら、有名人がスカウトしに来るかも」
「ああ、緊張するなあ。おれは素人だけど、あの日に見たものに、何とか近づくものを作りたいんだ。そのために桜花高校を選んだわけだから」
「そうか、さぞかしすばらしい劇だったんでしょうねえ」
 そんな心はずむ会話は、突如として中断させられた。
「森川知世。そこで何をしている」
 腰に手を当て、定番の黒ぶちめがねのレンズをまぶしく光らせ、生徒会長が土手に立ちはだかっていた。
 知世は、麦茶と間違えてめんつゆを飲んでしまったような顔をした。
 生徒会長は、ずんずんと大股で近寄ってくる。
「そろそろ試験期間なのだぞ。罪のない下級生を巻きこむな。自分が秀才だからって、そんな気づかいもなくしてしまったのか。嘆かわしいかぎりだ」
「そろそろって、まだ試験範囲も発表されてないだろうが。自分こそ、油を売ってるひまがあったら、受験勉強でもしてろよ。罪のない同級生を巻きこむな」
「わたしはきみのことを思えばこそ、忠告しているのだ」
「だったらじゃまばかりするなよ。そもそも、同好会の制限規則をつくったのも、お前じゃないか」
「演劇同好会よりも前に、同好会がなかったからだ」
「今でもうちしか、同好会はないだろう。おれを目の仇にして、そんなに楽しいのか」
 生徒会長は苦悩のポーズで身をもんで、大仰にためいきをついた。切なげな色が、眉間に浮かんでいる。
「ああ、いつの世も耳に痛い箴言は受け入れられないもの。きみを心配する心が、ここまでしてもわかってもらえないのか。
 入学したばかりのころは、こうではなかった。おとなしくて、慎ましやかで、遊びにうつつを抜かすことなどなかった。わたしは、その勤勉ぶりにいちもく置いていたのだ」
「森川先輩って、おとなしかったんですか?! こんなに奇矯な、いやすっとんきょうな、いやいやエキセントリックな人が」
 季耶は思わず口をはさんだ。だが生徒会長には、知世以外の人物は意識下に入っていないようだ。
「それなのに、森川知世は変わってしまった。あの不良とつきあいはじめてから。このわたしが、あれほど彼にはかかわるなと注意したのに」
「おれは生まれつき奇矯で頓狂なの、おあいにくさま」
「ああ、それはわかるな。森川先輩、伯母さんに似てるもの。外見もだけど」
 季耶は、ぽんと手を打って得心した。
「そう。おれって、七瀬家の血を色濃く受け継いでいるんだ。あの一族は、笑えるくらいみんなそっくりだぞ」
 生徒会長をうっちゃって、知世は季耶と会話をはじめたが、次の生徒会長の言葉は聞き捨てならなかった。
「森川知世、なぜ演劇部が廃止されたのか知っているのか」
 知世は、子犬が耳をぴくんと立てるように反応した。
「お前は知っているのか」
 色素の淡い瞳が、日ざしに透けるようにきらめいた。桜花高校の演劇部に出会ったことが、進路を決定づけたため、無関心ではいられないのだろうと、季耶は思う。知世にとっては、その出会いこそかけがえのない宝物なのだから。
 誰にたずねても、廃部の理由をつきとめることができなかったというが、今ここで明かされるのだろうか。
 季耶と知世と瑞樹の視線を一身に浴びて、生徒会長はもったいをつけた。その口から発せられた言葉は、さらにさらに聞き捨てならなかった。
「理由を聞いたら、もう春日玲とは親交をつづけられなくなるぞ。あいつのことを知らないから、それほど能天気でいられるのだ」
「どういう意味」
 知世と季耶が口を揃えて聞き返すのと、
「やめなよ、兄さん」
 制止する声が凛と響くのが同時だった。
 綾小路史緒が、腰に手を当て、土手にすっくと立っていた。唐突に現れる綾小路兄弟。この登場ぶりは似すぎだろうよあんたら。
 史緒はつかつかとやってきた。
「本人のいないところで、誹謗中傷めいたことを言うなんて、よくないよ。それに兄さんのは勝手な憶測でしょう、何も証拠があるわけじゃない」
「これ以上、級友が悪の道に染まっていくのを見すごすわけにはいかん」
 誰が級友だ、と知世が毒づいたが、もちろんことごとく、きれいさっぱり無視してのける。
「だいたい、お前は何もわかっていないのだ。よけいな口出しするな」
 兄にぴしゃりと言われて、弟はかちんときたらしい。妙な迫力がこもった。
「ああそうだね。たしかに、ぼくは事情を知らないよ。なんにもね。だけどひとつ確信していることがある。
 本当にみっともないよ。露骨すぎるしさ。兄さんはただのやきも……」
 史緒が言いかけた言葉は、生徒会長にはばまれてしまった。もがく史緒の口を、せいいっぱい抑えこんでいる。
 兄の威信をかけて、みなまで言わせまいとしているようだったが、そのかわり、いつものしかつめらしさが消しとんで、生徒会長としての威厳はまるつぶれである。
 たちまちとっくみあいに発展した。
 殴り合いのけんかなど、いかにも経験なさそうな知世は、あたふたしながら仲裁しようとした。
「ちょっと、ふたりともやめようよ、危ない。けがしたらどうするの」
 季耶は、草むらに落ちた生徒会長のめがねを拾いあげた。
「あれま。これ伊達めがねだったんだ。度が入ってない」
「何じゃれてるんだ」
 よく通る、冷静沈着すぎる声。ただ立っているだけでもさまになり、季耶を魅了してやまない存在がそこにいた。春日玲だ。
「劇の練習はどうした。おもしろいことをするなら、なぜ言わなかったんだ」
 不服もあらわに言う。練習に立ち会わなかった理由が、つまらなそうだったからだというのが、明白である。ほんとに専属脚本家なのか?
 生徒会長は顔をひきつらせ、棒を飲んだように硬直した。玲と遭遇した者の多数が、ていどの差こそあれ、似通った反応を示す。
 めがねをひったくり、弟をひきずって生徒会長がそそくさと去ってしまっても、玲は平気のへいざである。
「もう終わりか。つまらん」
 季耶と知世は黙っていた。先ほど生徒会長が玲についてほのめかした言葉がひっかかっていたのだ。瑞樹も無言だったが、これはいつものことである。
 つらつら鑑みるに、春日玲という人間のことをまるで知らない気がしてくる。住まいのことも、家族のことも、過去のことも。それでもよかった。今までは。
 親交をつづけられなくなるとは、いったいどういうことだろう。
 知世が、「玲」と呼びかけた。季耶は少しおどろいた。下の名前で呼ぶのを、はじめて見たからだ。
「知ってるの。演劇部が廃止された理由」
 押し殺したような問いに、玲はいともあっさりと即答した。
「ああ。演劇部をつぶしたのは、おれだから」
 季耶は戸惑った。
「師匠が? 突拍子なさすぎますよそれ」
「そんなことくらいたやすい」
「どうして……?」
 知世がかすれ声で問うた。
 玲は、先ほどとは打ってかわって、近寄りがたい雰囲気をかもしている。底光りする刃物のような。季耶がぞくりと背筋をふるわせたほどの。
 それにふさわしい、冷ややかな声音で応えた。
「ひまつぶし」
「……何だって」
「お前は耳が悪いのか。気に入らなかったのさ、演劇部って。周囲からちやほやされて、大物ぶって。あれしきの演技力で感動して人生を決めるなんて、お前もつくづく単細胞だよな」
 玲の端整な唇から、不可視の毒が吐き出される。知世は、瞳をまるくみひらいて立ちすくんでいた。石膏像のようにまじろぎもせず、全身をこわばらせて。
 玲は容赦なくつづける。
「退屈だから、あの部をつぶした。ゲームさ。ただのお遊び。
 ずいぶん顔色が悪いな。帰ったほうがいいんじゃないのか」
「そう? だったら、帰らせてもらうよ。ごめんね、瑞樹君。滝沢君も。せっかく来てくれたのに」
 知世がしぼり出すようなつぶやきをもらし、悄然ときびすを返したところで、季耶ははっとしてその二の腕をつかんだ。
「待ってください。合理主義の師匠が、そんなばからしい理由で行動するはずないでしょう。何か事情があるんですよ」
 振り返った知世に、玲は決定的な台詞を言い放った。
「そこで期待しても無意味だぞ。お前とつきあっていたのも、ひまつぶしだったんだから。まじめでいい子な優等生と、このおれが、お友達のわけないだろう」
 知世の体が、ふらりとゆらいだ。
「あっ。森川先輩、しっかりしてください」

 意識を失ったままの甥が、季耶におぶわれて帰宅すると、七瀬玖理子は、いつもの悠揚迫らざる調子とは一転し、てきぱきと、甲斐甲斐しく病人の世話をした。
 やはり年の功かと思わせるものがある。世間知らずの少女めいていても。
「あら、これ」
 彼女はベッドで眠る知世のポケットから、ハンカチを抜き取った。
「懐かしいわ。十年くらい前になるかしら。あたしが持っていたのを気に入ったから、ゆずったのよ。まだ持っていたのね」
 季耶はぶしつけなほどまじまじと、その手もとを凝視した。マーガレットの模様を散らした、桃色のハンカチである。ずいぶんキュートなしろものだ。逆立ちしても男子向けにはほど見えない。
 七瀬玖理子は、ちらりとほほえんだ。
「七瀬の家は十七代つづいているのだけど、女系なの。男子は生まれなかったり、病弱だったり、短命だったりするのよ。
 知世は妹の嫁ぎ先の子だけれども、女の子の名前をつけて、昔はこの家に来るたび女の子の服を着せたりしていたの。
 まあ、縁起かつぎね。若いひとは変に思うかしら」
 同年代にみえるひとに若いと言われるのは妙な心地だが、実際親子ほど年齢が離れているので、いよいよもって妙である。
 知世のぴったり閉じあわされた長いまつげと、はだけられた白い胸を見ながら、さぞ着せ替え人形よろしく遊ばれたのではないだろうかと、季耶は想像した。
 彼女は、口もとに刻んだ笑みを深くした。
「昔からこの子、体が弱かったわ。今日みたいな貧血も、めずらしくなかったの。本ばかり読んでいて、おもてではきはき遊ぶ子供じゃなかったから、お友達もいなくて、いつもひとりだったそうよ。
 高校生になってからはいいお友達にめぐまれて、本当によかったわ。うちにもお友達を連れてくるようになれたんですもの。これからもよろしくお願いね」
 季耶と瑞樹に、彼女は丁寧に頭を下げた。季耶は玲のことを思い浮かべた。知世を手ひどく傷つけたまま、立ち去ってしまった彼のことを。
 他人のことを気にかけるそぶりなど、まったく見せないのが玲である。特に知世に対しては。
 しかしその背中は、一緒にすごした過去と、これから一緒にすごすだろう未来を、粉々に打ち砕いているように感じられてならなかった。
「ああ、でもでも。そんなクールでニヒルな師匠も、ぞくぞくするほどすてきだったなあ」
 ついつい遠い眼になる季耶である。今はそれどころじゃないだろう……。

20040621
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