第一部
第六話 時をかける少女
「もう、困ってしまうわねえ」
土曜日。夕食の支度の手伝いをしている森川知世に、野菜をリズミカルに刻む手を休めず、伯母はこう切り出した。
しかし、いついかなるときものほほんとしている彼女が本当に困惑しているところなど、知世はついぞ見たことがない。
また下着を盗まれたか、と思いながら、庭から摘んできたサラダ用のハーブをテーブルに置き、
「何かあったの」
自分とお揃いのエプロンをした背中に向かってたずねた。
「街で若い男の子に声をかけられたのよ。ひまなら一緒に遊ばないかって」
「ナンパか。いつものことじゃない」
努力の必要がないためか、美容に関してはとんと無頓着な彼女である。素顔だと十代に見えるというのに、化粧せずに外出することが多い。ゆえに、補導されたりナンパされたりは、ありふれた生活のひとこまなのだった。
「それはそうだけど。あたしも、夫いない歴四年でしょう。だから……」
伯母が最後まで言い終えないうちに、電話のベルが鳴った。
「ごめんね、知世ちゃん。ちょっと出てくれる?」
素直に居間へと入りながらも、さきほどの伯母の発言が気がかりだった。だから、のあとは何とつづけるつもりだったのか。
恋人ができたのか、再婚する気か。知世の心はちぢに乱れたが、ともかくも、受話器を取った。
「はい七瀬です」
「知世なの? 元気?」
明朗活発な声の主は、実家の母だった。
「うん、元気でやってるよ」
会話は数分で終了し、台所にもどった。
伯母は戸棚の高い段にあるてんぷらなべを取ろうと、片足で懸命に背のびしたり、ぴょんぴょんとびはねたりしている。僅差で届いていない。
知世も小柄なほうだが、伯母よりは背が高い。なべを取って手渡した。
「はい。無理しないでよ。小さいんだから」
「あらありがとう。知世ちゃんこそ、ずいぶん背がのびたのねえ。立派な男の子だわ」
「どうしたの。いやにしみじみと」
「あ、そうそう、電話はどなたからだったの」
「母さんから。おれの進路についてちょっと問題があるって」
「かやちゃんがそんなことを?」
伯母は妹の森川佳弥子(もりかわかやこ)を、そんなふうに呼ぶ。
「父さんだよ。母さんはおれに任せてくれてるもの」
知世は父の話題を出すおり、どうしても仏頂面かためいきまじりにならずにいられない。
父は、学業優秀な息子が演劇の専門学校に行く気でいるのを快く思っていないため、かててくわえて知世の心を重くしていた。
伯母はけろりとしている。
「かやちゃんもあなたと話したいのよ。だから進路の話っていうのは、口実。知世ちゃんが気をもまなくても、あの子はうまく話をまとめてくれるはずよ。自分でそう言ってなかった?」
将来の夢を親に反対されている青少年がいたら、まわりのおとなの励まし方としては、親に理解してもらえるようがんばりなさいというのが、王道なのではなかろうか。
伯母がそうしないのは、伯母はもちろん知世の父という人物も、相当の変人だからにほかならない。
「でもさ。おれが高校を卒業したら、伯母さん、ひとりになっちゃうんだね」
伯母は、金銭的にはまったく不自由していない。土地の所有者という立場にくわえ、道楽ではじめた喫茶店「ハーツイーズ」も連日繁盛している(店の経営が道楽ですよ、道楽。庶民生まれ、庶民育ちの知世には、とうてい追いつけない感覚だ)。
だが。
この家で生まれ育ち、結婚生活をいとなみ、子供を育てた彼女は、これからもどこにも行けず、ずっとここでの生活をつづけなくてはならない。七瀬の本家の当主として。
彼女をとりまく環境は、確実に変化している。七瀬家の居住者は減少の一途をたどり、知世がいなくなれば、伯母はたったひとり、広すぎる屋敷に取り残されるのだ。
時間の流れが止まった館で、年をとるのをやめたまま生きる少女のようだと知世は思った。おとぎ話めいて、自分でも笑ってしまうが。
伯母は知世を抱きしめて、頬にキスをした。
誤解のないよう付記しておくが、これは日常茶飯事なのである。これしきのことでいちいち仰天していては、この人の甥はつとまらない。
「いい子ね、知世ちゃん。ありがとう、心配してくれて。
だいじょうぶよ。伯母さんには考えがあるの。この家を下宿屋にしようと思うのよ」
「げしゅくやあ?」
おとぎ話とは遠くかけはなれた意見である。今度こそは知世もびっくりした。
「桜花高校に通う子は、近くて便利でしょう。部屋もたくさんあまっているから、うってつけじゃないかしら」
なるほど、知世が友人を家に連れてくるようになってから、伯母はよりいっそういきいきしていた。おもてなし用にこさえるお菓子も、力作が増えた(甘党の春日玲などは、それをあてにして七瀬家を訪れているのではないかと、知世はふんでいるのだが)。
ゆえに知世に、否やはなかった。伯母は年若い少年たちと同居することになるが、再婚よりははるかに許せる。
「よかった。知世ちゃんに承諾してもらえて」
伯母は心底うれしげに、にっこりした。
「おれよりも、七瀬一族じゃないの。おれは七瀬の人間じゃないし」
知世がこう言うと、
「もう、みずくさいわね。知世ちゃんはうちの子も同然でしょう」
でこぴんされるのがいつものパターンだが、この日は違った。
伯母は知世の瞳をじっとのぞきこんだ。
「ねえ、知世ちゃん。七瀬の家を継ぐ気はない?」
知世は一瞬絶句し、へどもどと問うた。
「そっそれは。ふうちゃんかなっちゃんと結婚するってこと?」
いとこの芙雪(ふゆき)も菜月(なつき)も独身で、次女は二十七歳である……。
「あら、婿養子になってくれるの? それは願ったりかなったりだわ。でも、無理しないでいいのよ。女の子よりも男の子が好きなんでしょう」
伯母はまだ少し誤解している。
「少し考えてみて。返事は急がなくていいから。
やっぱりしないわ。再婚なんて。知世ちゃんといるときがいちばん楽しいもの」
翌朝はよく晴れていた。このところ、好天にめぐまれている。
知世は庭に水をまき終わり、ひといきついていた。
そろそろ草むしりもしなくてはならない。今日はこれから演劇同好会の会合があるので、来週あたりか。
「あれ。ここは森川先輩のお宅だったんですか」
ひとりの人物が、ジャスミンの生垣の向こうに立ちどまっていた。真新しい、桜花高校の制服を着ている。
ういういしく、いかにも育ちのよさそうなその少年を、知世はあわただしく記憶のアルバムをめくって探しだした。
「たしか、瑞樹君の同級生だったね。今日は部活なの?」
「はい。ぼく、入江彰といいます。みごとなお庭ですねえ。よく丹精されていて。今度見にきてもいいですか?」
「もちろん。これからは芍薬がみごとだよ。つるばらのころもいいよ。あずまやを覆うようにして咲くんだ。その下で飲むお茶は格別だよ」
知世の脳裏に、七瀬の館ですごした記憶が、堰をきってあふれだした。
この家は、せせこましい住宅街で育った知世のこころをひろびろと開放してくれる空間だった。森川の親族とことなり、七瀬の親族はみな陽気でおおらかで、知世を可愛がり、あたたかい思い出をくれる人々だった。
「先輩は、ずいぶんここがお好きなんですね」
「えへへ。わかる?」
知世ははにかんで、照れくさそうに笑った。
彰が礼儀ただしく一礼して去ったのち、知世は昨夜の伯母との会話を反芻しつつ、ぼんやりと物思いにふけった。
もしも、自分のものだったら。この家も。この庭も。それから……。
「ああいう人を魔性の女っていうんだろうな。何食わぬ顔をして、殺し文句を吐くなんて」
花を眺めながらためいきが出てしまうのは、ひと仕事終わったせいばかりではあるまい。
昨夜の極上の笑顔を思い出すにつけ眩暈がして、脱力感におそわれて、へたへた腰を抜かしてしまう。一発でノックアウトを食らってダウンか。つくづく自分が情けない。
「あっ知世ちゃん、危ない」
バルコニーから、伯母の大声とともに影が降ってきた。と思う間もなく、伯母が手をすべらせて落下したブリキのバケツが、知世の頭を直撃した。
煩悩をはらう除夜の鐘もかくやという鈍い音が、いんいんとこだまする。
「ごめんね。だいじょうぶ?」
伯母の声が遠い。
呆然自失の数秒がすぎ、知世はひとりごちた。
「前言撤回……!」
危険な女という点では、疑いの余地はなかろう。ただし別の意味でだが……。