ふるふる図書館


第一部

第四話 突然炎のごとく



 さて。二年前の話にとぶことにしよう。春の放課後のことである。
 森川知世が廊下を歩いていると、後ろからきた生徒がわきをかすめて通りすぎた。
 まったく。廊下を走るなんて。
 律儀に右側歩行していた知世は、生徒の非常識さを嘆きつつ、トイレに入って用を足した。
 ハンカチを出そうと、ポケットに手を入れると、かたいものが指先に当たった。
 何だろうと取り出してみて、知世は我が眼を疑った。煙草の箱である。身におぼえがない。
 あわてふためき、周囲を見渡した。幸い人影はなく、ほっと胸をなでおろしつつも途方にくれて、おろおろした。
 目の前の鏡に、自分のもの以外の顔が映った。きつい目許。見る者をひやりとさせる、怜悧な切れ長の眼は実に印象的だった。
 たしか隣のクラスの生徒のはずだが、知世は人の名前と顔をおぼえるのが大の苦手だった。
 彼は大股で歩み寄り、知世のポケットから、みじんのためらいもなく、くだんの煙草を取った。
 意表をつかれた知世は、
「それ、自分の?」
 間の抜けた問いをした。相手はにこりともしない。
「木野(きの)につかまりそうだったから。説教につきあうのは時間の浪費だ」
 木野というのは、生活指導を担当している、二十代後半の男性教諭である。
「いつの間に」
「さっき廊下で。気づかなかったのか。どんくさいな」
 初対面の人間のすげない決めつけに、知世はむっとした。彼が慣れた手つきで取りだそうとした煙草をひったくった。
「何だ」
 すごみをおびた眼光が、ゴルゴン姉妹も恥じ入る鋭さだった。この期におよんで、知世はぶざまなほどうろたえた。
「だって、ここで吸ったらまずいよ」
 抗弁する声が、我ながらかぼそい。
「たしかに、ここで吸ってもうまくはないな」
 認識のずれを、知世はあえて指摘しないことにした。
 相手が素直に煙草をしまうのを見て、おずおずと抗議をこころみた。
「持ってるところを見られたら、おれ、停学になったかも知れないんだよ。濡れ衣じゃないか」
「自分をずいぶん過小評価しているな。お前を疑うやつなんていないよ。品行方正、成績抜群の森川知世君だからな」
 あざける響きを感じ取り、知世ははなはだ気分を害した。
「おれを知ってるの、ええと……?」
「一年三組、春日玲」
「ふにゃっ」
 知世は面妖な声を上げた。
 あの、春日玲。地元出身の同級生に聞かされたことがある。
 この辺りでは有名な、とにかくとんでもない人物。かかわりあいにならないほうが身のためだ、気をつけろよ、と釘をさされたのだ。
 時すでに遅し。知世は、おのが記憶力の悪さをつくづく呪った。
 これが、森川知世と春日玲の出会いだった。運命の出会いというには、場所が散文的すぎるのだが。

 翌日、登校してきた知世を、学級委員長の綾小路那臣が待ちかまえていた。知世の姿を認めるやいなや、前に立ちふさがり、鼻先にびしっと指をつきつけ、追及を開始する。
「森川知世、昨日見たぞっ」
 知世はまともにはずみを食って、後ろにもんどりうちかけた。
「な。何だい。やぶからぼうに」
「放課後、あの不良と親しくしていたではないか」
「親しくなんてないっ。あんな、非常識で無作法なやつなんか」
 改めて怒りに駆られ、我を忘れて知世は叫んだ。
 委員長は、いつも柔順な知世らしからぬふるまいに面食らい、たじたじとなった。知世が声を荒げることなど珍しい、天変地異にひとしいできごとだったのだ(当時は)。眼を白黒させ、あたふたとなだめにかかる。
「しっ、わかったから。落ち着けってば」
「こらうるさいぞ、森川。チャイムが聞こえないのか」
 担任の怒声がとんできた。知世はひどく赤面してうつむいた。
 自分らしくない言動に、誰よりもおどろいていたのは、知世自身だった。いったい、自分はどうしてしまったのだろうか。

 ふたたび放課後。
 廊下で、背後に気配を察知した知世は、さっと振り返った。知世にしては機敏と評してよいだろう。
「おや学習能力はあるとみえる」
 玲が、唇を笑う形にゆがめた。揶揄と皮肉の入りまじった冷笑が、妙に板についている。同年の若人とは思えない。
 ややひるんだが、ここで負けてはならじと声を励ます。
「また、おれを校則違反の隠れみのにする気なの」
「違う」
「だったら何さ!」
 気色ばむ知世に、
「法律違反」
 玲はにべなく切り返す。あきれはてたように腕組みし、片眉をつりあげた。
「お前はまじめすぎるな」
 知世は耳まで赤くなった。まじめな優等生、と今まで何度陰口をたたかれたことか。
「おれはまじめじゃない」
「そうだ。きまじめだ」
 あっさり反撃された知世は、とっさに二の句が継げなくなった。
「春日。白昼堂々、かつあげか」
 木野教諭が知世の後ろに立っていた。いつの間に、と思ったのは知世だけで、玲は先刻承知だったらしい。
「いやだなあ。仲よくおしゃべりしていただけなのに」
 しらじらしい、と思ったのは、今度は知世だけではなかったようだ。教諭はやにわに、小粋に着くずされた玲の制服をあらためはじめた。
 たちまち、例の煙草の箱が発見された。不動の証拠を入手した教諭は、鬼の首でも取ったかという勢いで、勝ち誇って問いただす。
「何だ、これは」
 玲は、さも申し訳なさそうにうなだれた。しおらしい声で言う。
「ほんの出来心だったんです。誰にも見られないよう、こっそり食べようかと」
 中身はシガレットチョコレートだった……。
 木野教諭は、不完全燃焼といったていで、しぶしぶ立ち去った。知世は、玲に何か言ってやりたいと痛切に思った。
 さんざん頭をひねったが、出てきたのは、
「チョコレートを所持することは、日本の法律に違反するわけ?」
 何ともひねりのないひとことだった。
 知世は、がっくりと肩を落としてためいきをついた。
 彼はそれまで、知的で利発で親切な人間とみなされてきた。成績のよさで、周囲から羨望されてきた。勤勉で良識ある生活をいとなんできた。
 本当は知っていた。周囲が期待するような自分を演じることに疲れていることを。
 だが、そういったものを捨てたら、いったいどうなるだろう。自分には何のとりえもないのに。
 知世の自我を守るための、ちっぽけな誇り。玲は、それを鼻で笑いとばし、たやすく粉砕するたぐいの人間だ。たゆまぬ努力によって築きあげた、知世のなけなしの誇りをぶちこわしにする。
 すべて見透かすような玲の視線に我が身をさらすことを、本能的に知世はおそれていた。
 玲にかかわりつづければ、打ちのめされるだろう。自信を失うだろう。
 かかわりあいになるのを避けよう。どんなことにも気持ちを乱されないよう、平凡で平穏な日々をすごすのだ。
 いい子を演じて、誰とでも仲よくして、いつでも笑顔の仮面をかぶって。
 頼まれたらいやな顔ひとつせず、一晩かけて仕上げた宿題や予習のノートを丸写しさせてあげなくては。首席だから天狗になっていると後ろ指をさされないために。
 ただ普通にしているだけでも、いい子ぶっているだとか、先生のお気に入りだとか、悪口を言われるのだ。本当は嫉妬を受けるような人間じゃないことは、自分でよく知っているのに。
 人目を気にして、のびのびふるまえず、とろくて、鈍くて、笑われて、でもそれでいいのだと思っていた。きらわれないですむから。孤独にならないですむから。
 しかし。
 何だか泣きたい気持ちになった。
「おれはつくづくおもしろみのない人間だな」
「それは違うぞ」
 知世の暗澹としたつぶやきを、玲がきっぱり否定した。知世は眼をみはった。反射的に、頭ひとつぶん背の高い玲のおもてを振り仰ぎ、急きこんでたずねた。
「ほんと? ほんとにそう思う?」
「思う。からかうと実に愉快になれる」
 そーゆーオチか。この鬼畜。
「……おれはちっとも愉快になれない」
 玲が不意に肩をふるわせた。なんとなんと、笑っているのだ。それも、知世がはじめて見る、しんからの笑いだ。
 憎々しいほど小生意気で不敵なおもざしが、瞬時にして、年齢相応の少年のものになる。その変貌ぶりに、知世は眼を奪われた。口惜しいことに。
「な、何だよ。笑うなよ」
 玲は知世の髪を、くしゃくしゃにかきまぜた。
「おれは人を見る目があるってうぬぼれているんだ。期待しているぞ。失望させるなよ」

 月日は流れたが、知世は変わらず、玲のよき遊び相手である。
 ただ、玲は知世と遊んでいるのではなく、知世で遊んでいるのであったが……。

20040621
PREV

↑ PAGE TOP