ふるふる図書館


第一部

第三話 秘密の花園



 帰りのホームルームが終わり、綾小路史緒(あやのこうじふみお)は清掃に取りかかった。
 今週の教室そうじの当番にあたっているのは、史緒と、飛鳥瑞樹と、入江彰(いりえあきら)。
 桜花高校に入学して、一週間たらず。座席は名簿順にならび、そうじの班も名簿順につくられたことから、出席番号が前後する三人は、何とはなしに行動をともにすることが多かった。
「ねえぼくたち、学生食堂でおひるを食べたことないでしょう。どんな感じなのかなあ」
 窓から入りこむ桜の花びらをほうきで掃き集めながら、彰が話題をもちかけた。
「ああ、さくら亭ね。名前はみやびだけど、味はともかく安値と量に定評があるそうだよ。炒飯をうっかり大盛りで注文した日には、洗面器いっぱいぶんが出てくるし、メンチカツはわらじみたいな大きさなんだって」
「ふうん。剛毅だねえ。それにしても、情報通だね、綾小路君は」
 彰が素直に賞賛する。
「この学校には、知人が若干名いるもので。それより、部活動決まった?」
 史緒はごくさりげなく話題をそらした。
「茶道部にしようかと。綾小路君は?」
「天文学部か、地学部か、生物学部」
「さすが首席入学者だねえ。みんな学という字がついているよ」
 口調に屈託がなく、ねたみやいやみやそねみやひがみなど、みじんもないので、彰は史緒に好感をあたえる生徒だった。
 幼いころから日本舞踊を習っているというだけあって、挙措もゆったりしている。
「飛鳥君はどうするの」
「もうはいった」
 瑞樹は、彰の問いに淡々と応えた。
 この世のすべてに興味のなさそうな瑞樹である。部活動にうちこむなどとは思いも寄らない。史緒は耳を疑った。
 瑞樹の声音は平板で抑揚がなく、言葉数も極端にすくない。尋常でない表情のなさに、おそれをなして近寄らない同級生もいた。
 深く澄んだ瞳も、うつろでも暗くもないが、底知れぬ印象だ。
 意思疎通がきわめてむずかしいのだが、おっとりしていてものおじしない彰は、どうやら波長が合うらしい。稀有な存在である。
 稀有な人物は、ほかにもいた。
「こんにちは、瑞樹君」
 教室の入り口から、誰かが顔をのぞかせた。声はうきうきとはずんでいる。その場でスキップでもしかねない陽気さだ。
「待ちきれなくて、迎えにきちゃった。きみは期待の星だから」
 桜の花をかたどった校章の色で三年生と知れたが、自分よりも年下みたいだと史緒はひそかに思った。
 ブレザーを着ていてもわかる華奢な体型、ちぎれんばかりに手を振るしぐさ、こぼれそうな笑顔。くりくりした瞳、さらさらした髪、愛嬌のある口もと、繊細な眉。
「あっ」
 史緒は叫んだ。その上級生に見おぼえがあったのだ。三次元でなく、二次元で。
「もしかして、森川知世さんでは」
「そうだけど」
 相手はけげんなおももちになった。
「ぼくは綾小路史緒と申します」
 知世の顔から完全に微笑が消えた。三秒ほどして、彼はゆるゆると沈黙のとばりをきった。
「おれの知り合いにもいるけどね。同じ苗字の人物が」
「すみません。兄がさぞかしご迷惑をおかけしていると」
 史緒は日本海溝よりもふかぶかとためいきをつき、ふかぶかと頭をさげた。
 だしぬけに高笑いがとどろいた。
「ははははは。謝ることなどないぞ。愚かな我が弟よ。わたしは天地神明に誓って、常に正しい道を歩んでいるのだからな。人道にもとる不埒なやからを、このわたしが天にかわって成敗しているのだ」
「これはこれは、神出鬼没の生徒会長どの。今日も相変わらずお元気そうで何より」
 知世は、うんざりした態度を全身で表し、隠そうともしない。
「いい加減にしてよね、兄さん。恥ずかしいったらないよ」
 史緒はげんなりしながらも、仁王立ちしていきまく兄をたしなめる。
「わあすごおい、今の登場、ボスみたい。地球征服をもくろみながらも、なぜか日本の幼稚園のバスをジャックしている悪役のボスだよね。ねえ、飛鳥君」
 彰は表情を明るませ、無邪気にほめたたえる。
「………………」
 瑞樹はいつもの無表情。

 やかましい兄を生徒会の会合におっぱらい、史緒はそうじを再開した。手持ちぶさただからと、知世もモップを持って手伝いはじめる。
 一年生にまじっていても、さっぱり違和感がないのがおかしい。
「うん、きみは正しく綾小路君だね」
 知世は人懐っこく、顔をほころばせた。見ている側までつられるような笑顔である。
「どういうことです?」
「おれはきみの兄上を、ほとんど本名で呼んだためしがないんだ。だって、綾小路那臣(あやのこうじなおみ)っていう、せっかくの美麗な名前に対して失礼じゃないか。だから、学級委員長だの、書記長だのって、役職で呼んでいたよ。
 そうか、あいつは常に何らかのポストについているわけか。そう考えるとたいしたものだよね」
「兄の場合は、めだちたいとか、偉そうにしたいとか、点稼ぎしたいとか、そういうせこい理由だと思うんですが。十中八九、崇高な目的ではないですね」
 自分の兄を痛烈かつ辛辣にこきおろしてから、森川先輩はそういう役職におつきにならないですか、とたずねた。
「おれ? 柄じゃないから」
「対抗意識があるとは思わないですか。兄が、先輩に対して」
 知世は大きな眼をぱちくりさせた。
「思いあたるふしはないなあ」
「学業はいつも首席だそうじゃありませんか。桜花高校開闢以来の秀才って呼び名も高いんでしょう」
 知世のなめらかな白皙の頬が、朱を散らしたように染まった。
「ちっともすごくないよ。おれよりもっと頭がいいのもいるしさ」
「そうなんですか?」
「春日玲って知らないかな」
 人畜無害で、虫も殺せなさそうな知世の口から、その名が発せられるとは。さすがの史緒も不意をつかれて口ごもった。
 この近隣にあまねく名をとどろかせている、春日玲。どんなに腕におぼえがあるごろつきも、こそこそ避けて通るとか。
「春日は学校でいい成績を取ろうとしないからね。気まぐれで欠席するし、授業態度は最悪だし。
 でも、とび抜けて頭がいいんだ。試験の点は低いけど、まじめに答案を書かないからであって、単位を落とすようなへまはしない。本当は、どんな問題でも、やすやすと解くことができるんじゃないかな」
「へええ、非凡な人ですね」
 地道にこつこつ努力をかさねて、学年首席の地位をかちとった史緒は、複雑な気分だった。
 春日玲がうらやましかった。頭脳もそうだが、試験の点のわずかな上がり下がりに一喜一憂するみみっちさのないことが。
 優等生は、やっかみの的にされることがつきものだ。史緒も一度ならず悩まされてきた。
 だからといって、勉強ができないふりをする真似は、自分にはできないだろう。
 首席など、学校生活でしか役立たない肩書きだとわかっているが、手放す度胸はないだろう。ずっとしがみつきつづけるだろう。
 史緒の心を知ってか知らずか、上級生は話をつづけた。
「おれはひどくへこんだね。人一倍勤勉に努力しているのに、勝手ほうだいに生きているあいつにまったく歯が立たないなんて。自分のそれまでのやりかたを、すべて否定されたようなものさ。
 あいつは、何の苦労もなく優秀な頭脳を持っていることに、後ろめたさをおぼえるような殊勝さもないし。
 だけど、次第にわかったんだよ。やきもちやいてもむだだって。あいつは、おれが到底たちうちできる相手じゃないから。超然としていて、突飛で。天衣無縫とか、天真爛漫というには、あまりにも可愛げがなさすぎるけどね。
 生徒会長があいつを敵視しないのは、わかる気がするな。あいつは別格だから。そういうやつより、自分が勝てそうな相手に負けるほうが悔しいからね」
 史緒が黙然と考えこんでしまったので、知世は話題を転じた。
「それより、きみはおれの顔を知っていたの?」
 史緒は、いっきに現実にひきもどされた。
「ええ、兄の写真で。あ、ぼく、水を捨ててきます」
 つとめてさりげなく話を打ちきり、バケツを持って出ていった。その脳裏に、ある記憶がよみがえる。
 いつのことだったか、辞書を借りようと、留守中に兄の部屋に入ったときのことだ。
 ベッドの枕が不自然に盛りあがっていた。あの堅物でもポルノ雑誌などを隠し持っているのかと、枕をどけてみた。軽い気持ちで。
 あったのは、写真をおさめた額だった。ひとりの人物が写っている。
 史緒をどきまぎさせるほどの無防備さから推しはかるに、自分に向けられたカメラに気づいていないようだった。ありていに言えば、隠し撮りだ。
 写真の人物が兄の同級生だとは、今の今まで考えもしなかった。あまりにも幼く、可愛らしかったので。兄を魅了するには、充分すぎるほどに。
「ああ兄さん。あなたという人は」
 史緒はひとり懊悩し、バケツを持ったまま激しくかぶりを振った。水がたぷたぷ揺れるのもかまわず。
 兄の秘密は、決して誰にももらすまい。このぼくが墓まで持っていこう。史緒は我が身に固く固く誓うのだった……。

20040621
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