おまけ
出会いは蜃気楼のように
母はぼくの眼を見ようとしない。
どんなに話しかけても欲しいことばを返してくれない。
笑顔になることもない。
冷たく背中で拒むばかり。
そうでなければののしるばかり。
あの男の血をひいたお前も、将来人殺しのろくでなしになる。
お前が生まれたせいであの子が死んだんだ。
お前はまわりの人をみんな不幸にする。
母がぼくを疎む理由を知ったのは、ある夏のこと。
押入れにしまわれていた日記帳で、偶然、本当のお母さんとお父さんのことがわかった。
もうお母さんはこの世にいないから、お父さんに会いに行こうと思った。
はじめてひとりで電車に乗った。
おこづかいなどもらったこともないぼくは、こっそり母の財布から電車賃を借りた。
どんな世界が待ち受けているんだろうと胸をどきどきおどらせて。
暑い暑い夏だった。
ぼくは期待を裏切られるということを経験した。
いや、それまでだって何度もあったはずだ。母に何を言っても無視される、罵倒される、毎日そんな繰り返し。
なのにぼくはばかみたいに放心して。ひとり外にうずくまって。
もう誰にもいっさい期待をかけないことを決意した。
ひえびえと凍りついた心で。
「ねえ、だいじょうぶ? 血が出てるよ」
蝉しぐれさえも聞こえなかったぼくの耳に、その声は不意にひびいた。
みすぼらしいぼくとはまるで違う、裕福そうな人形のような身なりの。
人形のような子供。
学校でも家でも近所でも、誰も近づかず誰もやさしいことばをかけないぼくに、その子はハンカチを手にして歩み寄り、服が汚れるのもかまわずぼくの前にひざをついた。
その手を払いのけた。
だって。誰にも期待なんてしないんだから。
それでもその子は、ぼくの傷口を清めようとした。
ぼくは相手を突き飛ばした。
色白の細い体をした子供は、あっけなく地面にころんだ。
身動きせず声すら立てず、ぼくをただ見つめた。
ぼくは無言で睨み返した。
どのくらいそうしていたんだろう。
誰かに名前を呼ばれて、あの子は立ち上がると何も言わずに走り去ってしまった。
突然、蝉のうるさい鳴き声がどっとよみがえってきた。
なぜ拒んでしまったんだろう。そうされることのつらさは、よく身にしみてるはずなのに。
ぼくは二度と、誰にも期待なんてかけない。「やさしさ」なんて、「思いやり」なんて、「親切」なんてものは知らない。
そうすれば、ぼくは帰ることができる。あの家に。
たったひとりぼっちでも生きていける。
だから。だからそのかわり。
行きずりのぼくに、ただひとり手をさしのべてきた、あの子の気持ちだけを信じて生きていくことにしよう。
そうすれば、ぼくは帰ることができる。いつもの生活に。
たったひとりぼっちなんかじゃない。
将来、ぼくにはやりたいことなんてなかったのに、あの子のおかげで生まれてしまった。
もう一度、あの子に会おう。
そのために、ぼくはぼくを捨ててしまおう。
みじめで、不安で、さみしくて、頼りないぼくを新しくしなくちゃいけない。
泣くのは今日で終わりだ。そんなひまなんてない。これが最後の涙なんだ。
こっそり誓う。
あの子の忘れたハンカチを握りしめながら……。