ふるふる図書館


おまけ

コーリン・ユー



 廊下にぺたぺたと音をひびかせ、何も履かないむき出しの足が自分の主人を忠実にリビングルームへ運んでくる。主人はドアをひらき、舌足らずに「おはよう」と挨拶する。返答は沈黙のみ。
「伯母さん? 母さん? いないの? あれ、出かけちゃったのか」
 ひとりごち、あくびをしようと大口をあけると同時に。
「なぜおれのことは呼ばない?」
 キッチンから春日玲が姿を現したので、間抜けな顔のまま固まってしまった。
「びっくりさせるなよ。いるならちゃんと挨拶返せ」
 寝ぼけまなこをまんまるにして、多少は呂律のまわった声を出す。
「どうしておれを呼ばないのかと聞いているのだが」
「はあ?」
 玲が尋問を重ねると、かたちのいい柳眉をひそめてアイボリーの革張りソファにすとんと腰を下ろした。
「休日の朝、うちにいるほうが珍しいくせに。何を言っているんだ」
 どの面下げてそんなことが、と台詞を吐いて、そのままことんと横転してしまう。
 またしても降臨したらしい睡魔に全面降伏し、軟体動物のようにぐにゃぐにゃに骨抜きにされているちびっこい生き物。つい数週間前まで桜花高校の優等生という金看板を背負っていたはずの森川知世は、今や、怠けもので寝ぼすけな七瀬知世にみごとな変貌を遂げていた。
 いや、本来の姿に戻ったと解釈すべきだろうが、虚像だけを見ていた者どもにはこの光景がにわかに信じがたいに相違ない。お釈迦さまでもわかるまい。わかっているのはこの春日玲さまだ。
 しかし眠たそうに閉じたまつげの濃さだの長さだの、レースのカーテンごしの光を跳ね返す飴色の髪のやわらかさだの細さだの、頬の白さだのきめ細かさだの、だぶだぶの袖からちょこんとのぞいた指先のほのかな桃色だの、は相変わらずである。
「で? 今日はなんだって早くからうちにいるんだ? 朝帰りしたところか? 昨夜の相手はずいぶんあっさりお前を解放したんだな。女遊びだか男遊びだか知らないし知りたくもないけど」
 そこまで言って知世は「ふああ」と、先刻不発に終わったあくびを今度こそきっちり盛大に出しきった。
「質問に答えていないぞ」
 玲が指摘すると、閉じていた薄いまぶたが少しだけ持ち上がり、はしばみ色の瞳が玲を見た。それは一瞬だけで、すぐさま玲の視線をシャットアウトする。
「お前なんか呼んだってしかたないだろ。不在者を考慮するだけむだじゃないか」
 知世ごときが憎たらしい口を利くものだ。
「むだでもやれ」
「朝っぱらから無体なこと言うな。もしかして、機嫌悪いの?」
 ふられたとか? などと勘違いもはなはだしいことをたずねてくる。玲は懇切丁寧に事実を教えてやった。
「おれは相手に袖にされたことは一度たりともない」
「ふーん……さよですか」
 知世はころんとだんご虫みたいにまるまった。表情が見えなくなったその体勢で、再び問う。
「なんでお前、いつもうちにいないの?」
「もてるから」
「ならいいけど、さ。
 ……妙な心配かけるなよ。ここに居場所がないんじゃないかって、思っちゃうだろ」
「心配って誰が。思うって誰が」
「……母さんと伯母さんがだよ」
 知世はいちいち間を空けてくちごもる。
「よく聞こえない。話すときは相手の目を見て言え」
 パジャマに包まれたひざこぞうを、知世の頭からひっぺがした。
「ごめんこうむる。おれは眠いの!」
「ほほー。その割には口達者になったものだな、とろくて浅はかな七瀬知世君」
「やけに絡むね」
「女遊びも男遊びもやめたら、お前で遊ぶしかないだろうが」
「おれは別に、夜遊びをやめろなんて言ってないだろうひとことも! むしろお外で元気に遊んで来い! おれにはどうぞおかまいなく!」
 がんこに目を閉じようとする知世の上下のまぶたを指でむにっと押し広げた。
「いたたた」
「経済的に窮乏していないからパトロンは必要ないし。居住性にも不服はないから外泊する必然性もないし。そうか今は、ほかの誰かと遊ぶ理由はないわけだな」
 知世は玲の手を振り払った。
「いや、うちに寄りついてもらわなくて結構なんですけど! お前は家族じゃないだろう、むごくて冷ややかな春日玲君。
 あ、そうだ」
 回転のやや遅い頭脳がようやく、逆襲の手立てを考え出したらしい。武士の情けで、玲は一応先をうながしてやる。
「申してみろ」
「お前、改姓しないの?」
「苗字なんぞ文字と音声の羅列だ。意味はない」
「お父さんの名前にはしないのか?」
 玲は内心、苦虫をグロス単位で噛みつぶした。知世にしてはなかなか有効な攻撃だ。本人が気づいているかはともかく。
「まっぴらだ。そんなしち面倒もはち面倒もかかることなんざ」
「いいじゃない。優美じゃない。お前にうってつけだろう、貴やかで雅やかな綾小路玲君」
「兄弟だと知ったら、あいつらが発作を起こしかねない。人殺しになりたくなったらそうするさ」
「へええ」
 知世は行儀悪くソファにころがったまま、にまにま口許をゆるめている。お人よしっぷりにかけてはギネス級を誇る知世と仲間にされるのははなはだ心外な玲であった。

「別にどうだっていい」
 実に無造作に玲は言う。
 あんなに春日の家を逃れたがっていたのに、今後ずっと名乗り続けてもいいのか?
 そう問いかけたかったが、知世が声に出せたのは、最後の「いいのか?」の四文字だけだった。要約しすぎだ。
「おれが玲で、お前が知世だってことは変わらないだろう」
「それはまあ、そうだけど、さ」
 切れが長くて澄明な、いつでも鋭すぎるナイフめいた瞳にのぞきこまれて、知世はなんとはなしに視線を伏せた。そういえば、と、スリッパも靴下も履かないむき出しのつま先を見つめながらぼんやり思い起こす。玲は苗字ではなく名前のほうに愛着らしきものを示していた。昔から。
 だからって、このシチュエーションで呼べっていうのか。冗談じゃない。
 わずかな隙もなくきっちりと私服を着こなして涼やかな空気をまとっている玲と、まだ起き抜けのぼさぼさ頭に乱れた寝間着姿のうっとうしさ全開の自分。
 体格も性格も、体力面でも精神面でもどうしてこんなに差をつけられなくちゃいけないんだ。
 知世はもう一度体育座りのポーズで、顔を隠した。
「何ちぢんでるんだ、もともとミニマムでコンパクトななりして」
「……眠いんだってば」
「ふん」
 見透かしたように玲が笑った。確かにこれだけ会話しておいて、今さら「眠い」はないよな、ごまかせるわけがない。
 ほんとうに、今さらだ。知世はこっそりためいきをつく。
 同居を始めてから、家族以外のみんなにかたく秘してきただらしなさだとか、ラフすぎる生活態度だとか、そういうのをこれでもかってくらい見せても、玲の態度はまるきり同じだ。さもあろう、玲は知世の恥ずかしいところも情けないところも、たくさん目の当たりにしてきたのだ。それこそ、何を今さらって感じなんだろう、予防線なんて張ったところでまったく無意味だったってことだ。
 だけど一寸の虫にも五分の魂、知世にだってなけなしとはいえ見栄くらいある。おそらく玲には屁のつっぱりにもならないだろうけれど。
「幻滅とはね、幻が滅すると書くんですよ知世君。はなからきみに幻想なんぞございませんけれど?」
 などと木で鼻をくくるがごとく小憎くざっくりばっさり斬って捨てるんだろうけれど。端整な眉の片方を吊り上げるその面持ちまでもが容易に脳裏に浮かび上がってくる。
 あーあ。どうしてこんなやつと一緒に暮らしているんだろう。
 気を許しきった家で、気の緩みきった格好でこいつと相対することがこんなに決まり悪いことだとは。眠たいふりをせざるをえない。ぼんやりしたふうを装わずにはいられないじゃないか。
「お前の名前なんか呼んであげませんからね」
「ひとつ屋根の下に住んでいるのに?」
「お前は家族じゃないって言ってるだろうっ」
「なるほどわかった」
 いやにすんなり静かに引き下がる。口調が強すぎただろうか。どきんと知世の心臓が震える。それは玲を傷つけたという後悔ではなく報復されることへの危惧からである、はずだ。
 だが次に玲が発したことばは、知世の予想を大きくはずした。
「つまりお前は、おれに死んでほしくないんだな」
 それが、七瀬家の男子はことごとく短命であるという事実を指していると悟るが早いか、知世はぱっと顔を上げた。
「そんなことっ、お前が発想するとは思わなかった! おれがお前のこと、死んでほしくないなんて思ってるなんてお前が思ってるなんてなんてなんて……」
「落ち着け」
「だ、だって。まっとうな人間みたいじゃないかお前。いっつも何にでも無関心でさ、つまらなそうでさ、生きてる価値なんかなさそうにしてたから。お前でもそういうこと考えるのってすさまじく違和感。変。ものっすごく変」
「あっそ」
「だけど」
 知世はおでこをひざに押し当てて続きをつぶやいた。
「よかった。うれしい」
「……何だって。よく聞こえなかった」
「う。嘘だ!」
「話すときはおれの目を見て言え」
「だって眠いんだもん!」
 高校も卒業したというのに、小学生じみたけんかをくりひろげる知世と玲に、
「あ、あの……」
 おずおずした声がかけられた。ふたりそろって振り返る。
 そこにいたのは小園深春。七瀬邸の下宿人は、色と趣の異なる二対の瞳に見つめられてへどもどした。
「おじゃまみたいですね、その……朝ごはんはまだ、いいです」
「あっごめんね、おれたちもまだだから、今から一緒に食べよ?」
 玲の腕から逃れて上半身を起こし、乱れて頬に落ちかかっていた髪をかきあげながら知世が誘うと、深春の首から頭皮までがみごとに完熟トマトの色に染まった。
「目の毒ですって、知世さんっ。無防備すぎます!」
「は?」
「失礼しました!」
 一目散に駆けていく背中を、知世は微妙にへこんだ気分で見送った。
「おれ、そんなに見苦しいかなあ」
「ふん、不憫なやつだな」
「そうだね、朝食を食べそこねたものね」
「お前は、自分のぐうたらなところがきらいなんだろう。でも、それを喜ぶ者もいるってことだ、気に病むだけ愚かだな」
「へ? なにそれ、意味わからない」
 しっかり起きることもできないなんて、キング・オブ・だめ人間じゃないか。生物としてすら機能していない。玲はどうなのだろう、そのうちあきれて自分から離れていってしまうのではないだろうかと知世は少しうつむく。
「努力する。だらけないでちゃんと早起きしてぴしっと生活する」
「できっこないくせに」
「お前にできておれにできないことなんか……あ、まあ、いっぱいある、けどさ」
「わかってるじゃないか。だったら思う存分ふにゃふにゃしていればいいだろう?」
「おれに人間を辞めさせる気か」
「無理が祟るとほんとうに辞めかねないところまで追いつめられるだろうが。お前こそ早死にするぞこのあほう。今のままでいればいい」
 大きくて繊細な手が、ぽんと知世の頭に載せられた。それが妙にここちよくて、知世ののどがするりと礼をつむいだ。
「ありがと、玲」
「あ」
「……あ?!」
「ふうん。眠気がさめたんだ? さっすが、ぴしっとしているねえ?」
 一本取ったり、と言わんばかりににやりとする玲。
「ああさめましたさめましたとも。ぐずぐずしないですっきりしゃっきり起きますとも今後とも。だから、おはようからおやすみまでお前なんか何度でも呼んでやるよ。玲。玲、玲、玲、玲」
 赤くなってやけっぱちで連呼すれば「九官鳥かこのどあほうめ」と唇をつまんでひっぱられた。
 自分の感情は、一般的には「照れ」と称される。そのことにとんと気づかない、否、意地でも認めないでいたい知世であった……。




***
五周年記念リクエストの中から、「桜少年の同居話」をお届けしました。
募集開始早々にご要望をいただいて、見苦しいほど狂喜しました。
一番好きとおっしゃっていただき、天にも昇るここちです。
hibariさん、ほんとうにありがとうございました!

20090802
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