ふるふる図書館


第二章



「ヴォータンがあなたに何をしてくれたっていうのよ、ローゲ」
「そうよ、あなたが何をされても、かばおうともしないわ」
 ラインに身を浸すローゲを取り巻く乙女たちが、ヴォータンを非難した。ローゲに好意を寄せるのは、沐浴の際にローゲが必ず男性の身体をまとっている所為もあるだろう。世界の覇権をめぐる争いに関係も関心もない河の精は、ヴォータンへの忌憚に縛られることもないのだった。
 しかしそれでも、直接顔を合わせるのは苦手だった。不意にラインの娘たちはやんごとない気配を察し、小さく可憐な悲鳴を上げて水中深く姿を消した。入れ違いに現れたのは。
「ヴォータンさま」
 ローゲは驚愕のあまり、痛みも忘れて瞠目した。
「いらっしゃるとは存じませんでした」
「ローゲよ、お前は死にたいのか。なぜそのような真似をする」
 低く厳しく荒々しく叱咤され、しばし呆然としたローゲは、おもむろに淡い微笑を口許に刷いた。
「何がおかしいのだ。わたしは怒っているのだぞ」
「おかしいのではございませぬ。嬉しいのです。あなたさまにほんの僅かでもお気にかけていただけるなど思ってもおりませんでした」
 肩をつかんでなじるヴォータンに怯まず、ローゲは歓喜に満ちて語を継いだ。
「ご覧ください、どんなに触れられてもわたくしは今や、あなたさまを傷つけることなどありませぬ」
「まだ気にしておるのか。あのような火傷など、怪我のうちにも入らぬ」
「あなたさまにはそうでしょうとも。ですがわたくしは居たたまれぬ心地でございました。わたくしに触れようとする者など、あの晩まで一人たりともおりませんでしたのに、ただおひとり、あなたさまだけがわたくしに手をさしのべてくださいましたから。
 わたくしは一介の炎として、あのときただ消えゆく運命でございました。そこをヴォータンさまがお救い賜うたのです」
「お前は、その身に封じられていることに不満があるのではないか、炎よ。自由になりたいのではないか? かの槍の魔力でわたしはお前を拘束した。契約によって支配し制御し、思いのままに召喚した。ブリュンヒルデが頂に眠る岩に縛りつけさえもした。しかし槍はすでに勇者によって砕かれた。わたしのもとから逃れる絶好の機会ではないか」
「これは異なことを。わたくしがヴォータンさまにお誓い申し上げた忠誠を違え、反故にするとでも?」
「ならばなぜ、己が体躯を痛めつけるのだ。わたしが与えた身体を粗末にするのだ」
 重ねて詰問され、ローゲははじめて睫毛を伏せた。
「そのようなことは」
 おののく声音を喉の奥から絞り出しつつ視線を逃がすローゲをヴォータンは赦さず、顎をとらえて強引に自分の方へと向けさせた。
「申せ」
 険しい視線に射られたローゲは観念し、端整な唇をひらいた。
「わたくしは、怖いのです」
「怖いだと」
 意を決してヴォータンの隻眼をまっすぐに見つめ、ローゲは返答を紡いだ。
「わたくしは、自らの火焔の狂気に飲みこまれそうになるのを恐れております。高貴な方々に玩弄されることも、その挙句に子をなすことも、わたくしが産んだ子が化け物と罵られて殺されたり幽閉されたりすることも、些細な、取るに足らぬことのはずなのです。なのに、このローゲの存在は揺らぐのです。あなたさまがくださった身を捨てて、卑しい貪欲な炎の姿に戻ろうとするのです。わたくしはこの身にわたくしをとどめおきたいのでございます。ヴォータンさまのみもとへつなぎとめたいのでございます。ゆえにわたくしは、常にラインで浄身せねばならぬのです」
 真実を告白する羞恥と恐怖に、つい唇がおののいた。こらえきれずにそむけた面輪を覆おうとする手を、ヴォータンが握り締めた。
「虚偽(リューゲ)」
 呼ばれて、ローゲの肩がぴくりと跳ねた。
「口が巧いな。わたしをも舌先三寸で誑かす気なのか。皆が申すとおり、お前は虚偽そのものだ」
 ああ、なんて意地悪で冷酷な方なのだろう。弾かれたように相手を凝視したローゲの双眸は怒りに燃え、漆黒から灼熱の紅へと瞬時に色を変じた。濡れて肌にまつわっていた髪の水分がたちまち気化し、濛々たる蒸気となって立ち上った。
「本気で仰せなのですか。あなたさまは片目と引き換えに、智恵の泉をお飲みになったと聞き及んでおります。その智もとうとう枯れ果てたようでございますね」
 鋭い口吻を叩きつけてから、ローゲは我に返って言葉を途切らせた。狼狽し、非礼への詫びを舌に載せる前に、ヴォータンが命じた。
「いいから話を続けよ。そうでないとただではすまさぬぞ」
 ヴォータンの真意をはかりかね、ローゲは両手を捕らわれたまま躊躇いがちに語を繋いだ。
「わたくしは狡猾だの、奸計に長けているだのと謗られても一向に構わないのです。たとえ虚偽と呼ばれようとも。確かにわたくしは謀略を巡らせ、さまざまな敵を陥れてまいりました。しかしそれは、すべてヴォータンさまのためだけにしていることでございます。なぜ、わたくしが、あなたさまをたばかることがありましょう。ローゲには、あなたさましか忠誠を捧げる方はおりませんのに」
 言葉を連ねるうちに再び気持ちが昂り、ローゲは全身をわななかせた。火焔の身でなければ、口惜しさゆえの涙さえも流していたことだろう。
「揶揄が過ぎたようだ。お前の本心がお前の口から聞きたかったのだ。赦せローゲ」
 睨みつけられたヴォータンは手を放した。乱れたローゲの赤毛を指先で梳くヴォータンの動きには優しみや慈しみすら感じられた。先ほどの冷淡な様子とは打って変わった態度を、ローゲは不思議な心持で受け止めた。
 ローゲを挑発し、平気で手酷い仕打ちをするくせに、ローゲが憤りと哀しみに駆りたてられるまま激しくねめつければ、すぐさま不安を面差に走らせ、宥めにかかる。普段近寄りがたい主神ヴォータンのこのような表情を、ほかの神々は知っているのだろうかとローゲは考えた。たとえば、正妻フリッカは。
「赦すだなどと。わたくしをお気のすむまま扱うことができるのはあなたさまだけ。ローゲはヴォータンさまのものです」
「ならば誓え、お前の神はこのヴォータンだけだと」
「わたくしは、疾うに、そのつもりでございます。出会ったあの夜から、ずっと」
「水から上がれ。そんな格好では、話もできぬ」
 ヴォータンは軽々とローゲを抱え上げて岸辺に下ろした。ローゲはふらつき、よろめいてヴォータンの肩口に一糸まとわぬ身体を預けた。
「言わぬことはない、無理するからだ」
「いいえ、無理など」
 離れようとするローゲの腰に、ヴォータンは戯れかかるように腕を回し、動きを封じた。
「ほら、意地になっているではないか。強がりばかり申すでない」
「そんなことはありませぬ」
 ローゲは反駁しかけ、ヴォータンが屈託のない笑みをこぼしていることに一瞬、胸を衝かれ呼吸を忘れた。
「わたくしは、ヴォータンさまに笑っていただきたかった、だからあなたさまにお仕えすると決めたのです」
 ヴォータンは笑いを深めた。
「お前の言葉は素直すぎて、ひとつひとつ疑いたくなる」
「先ほどわたくしを虚偽と呼ばわりましたね。なんと心ない、ひどい仰りようでございましょう。ローゲはいたく傷つきました」
 ローゲの抗議に、ヴォータンは愉快そうに肩を揺らした。
「ようやく、気が置けぬ言動を見せてくれたな。お前はわたしの臣下である以前に、義兄弟で友人だ。よもや忘れておったとは言わせぬぞ。ほかに誰もおらぬときくらいは、そのように振る舞ってほしいものだ」
「申し訳ございませぬ、ヴォータンさま」
「ほら直っておらぬぞ」
「はい。努力します……ヴォータン」

20070826
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