ふるふる図書館


第一章



 深遠なる夜の懐に抱かれたラインの河畔。
 その聖なる水に身体をさらし、苦悶に呻く者があった。暗闇と静寂とをそよがせるのは、あえかな喘ぎ声と、乱れた呼吸音。
「苦しいの?」
「大丈夫?」
「また無茶をしているのね」
 無邪気なラインの乙女たちが、黄金の長い髪を揺らめかせ、裸身をしなやかにくねらせて泳ぎ寄った。ヴォークリンデ、ヴェルグンデ、フロースヒルデの三姉妹がかわるがわる覗きこむ苦行者の容貌は、夜を欺き、月と星の明かりを凌いで際やかに光り輝く端麗さ。激痛に顔をゆがめ眉をひそめ、唇を噛み締めていてさえ何ら瑕にならぬほどの。
「ラインで身を清めようだなんて」
「駄目よ、あなたは炎だもの、ローゲ」
「そこまでしてヴォータンに義理立てするの?」
 歌うように軽やかな口調に懸念をこめ、乙女たちは口々に言った。
 ローゲはかたく閉じていた瞳をうっすらとひらき、その色を和ませた。
「あの方は、わたしを救ってくれた」
 ささめくような、かすれたつぶやきが闇にほどけて溶けていった。
 さざなみさえもローゲの苦痛をいや増すことを慮って、乙女たちはそっと佇みローゲを見守った。
「ローゲのおばかさん」
「度を超えた忠義なんて」
「いつか身を滅ぼすわよ」
 彼女たちの声を耳にしつつも薄れゆく意識の裡に、ローゲは主神ヴォータンと出会ったときの記憶を蘇らせた。
 ローゲはただの焚火の炎だった。ひたすら、ヴォータンの前で揺らめき躍るだけだった。
 ヴォータンは夜更けの闇と物思いとに沈みこみ、ひとり炎を見つめていた。なんてさびしい眼差しをしているのだろうかと炎は思った。神として世界を手に入れ、何もかもを得て栄華を極め、神々をさえ統べる存在。他を圧し、周囲をはらう威厳を持つはずなのに、何故、そんな孤独な横顔をしているのだろう。炎の奥が爆ぜ、ゆらりと震えた。
「お前は美しい。わたしをいつも慰めてくれる」
 ヴォータンは低く告げた。
「炎よ、ずっとわたしのそばにいてくれぬだろうか」
 炎はさらに震えた。
「それなら、わたくしにご命令をください。あなたさまにまつろわぬ者がどこにおりましょうか。わたくしのように卑しいものが、ささやかなりとでもあなたさまのお役に立てるのならば喜んで添いましょう」
「では、わたしに従うがよい。世界樹ユグドラシルより生まれ、世界統治の契約と叡智の証たるルーン文字を刻みしこの槍を以って、主神ヴォータンがお前を神としよう。名を炎の神ローゲと命じる」
 言葉が終わるとたちまち炎は、輝かしい神の姿に転じたのだった。
 誕生した瞬間を思い起こし、ラインの聖水に全身の肌を灼かれつつ、ローゲは瞼をきつく閉ざした。ヴォータンに火傷を負わせたことが、いつまでもローゲを苛み続けていた。
 わたしは触れるだけで誰かを傷つける。出来損ないの神と軽んじる、神々の嘲笑と侮蔑の視線も当然なのだ。
 炎の神は、光の精たる正統な神々におさおさ劣らぬ美しさだった。同時に、明らかに異端たる者だった。冴え冴えとした白い肌に、黄金の髪、碧や翠の瞳を持つ神々の中にあっては、褐色の肌、赤い髪、漆黒の瞳は否が応にも目に立った。
 美貌と異端ゆえに、半神ローゲは神々の慰み者になった。神々にとって都合のよいことに、ローゲの身体は男のものにも女のものにも自在に変化できるのだった。
 神々の為すがままになり、辱めを甘受する日々は現在に至るまで途切れずにいた。

20070826
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