ふるふる図書館


第三章



 どんなに固辞されても受け入れず、ヴォータンはローゲを、虹の橋を架けた天上の宮殿ヴァルハラへ連れて行った。消耗しているローゲに、黄金の林檎を食べさせるのだとヴォータンは主張した。
 神々の不老不死を維持するために不可欠の果実、美の女神フライアが育てる黄金の林檎。ローゲは無論、口にしたことがなかった。
「ひとくち齧ってみよ。元気になれる」
「まさか。フライアさまやほかの方々がお知りになったらどうなることか。それに、わたしがあなたのお部屋に入れば、フリッカさまはご迷惑でしょうに」
「妻は不在だ」
 ヴォータンに短く返されれば、ほかの誰に対しても弄する口八丁を発揮することができなくなり、黙って従うよりなくなるのだった。
 ヴァルハラに足を踏み入れるなり、驚きがローゲの声を奪った。異様な光景に、辛うじて問いを押し出した。
「これは一体どういうことです、ヴォータン」
 荘厳な玉座のまわりには薪が山と積み上げられていた。それは、かつて智恵の泉のほとりに繁っていた巨木、世界樹が打ち倒され切り刻まれ、変わり果てた姿だった。
 ローゲがヴォータンを振り仰げど、主神の視線は、ローゲに向けられてはいなかった。ローゲと出会ったときと同様に。
「わたしはすでに、倦んだのやもしれぬ」
 ヴォータンは独語めいて洩らした。
「巨人族やニーベルング族との諍いは果てしもない。世界樹の槍は己が愛する子孫に折られ、わたしの権力を保証する誓約は終わった。ユグドラシルは枯れ、智恵の泉も永遠に涸れた。至宝をめぐり、存在するものことごとくは呪われた。神々は飽かず快楽に耽るばかり。最愛の娘ブリュンヒルデにも裏切られた。一体、不死が何の役に立つというのだ。生粋の神ならぬお前にはわかるか。ローゲ」
 ローゲは動揺を押し隠した。
「わたしは、あなたと共に歩むまでです。あなたはわたしを拾い上げ、傍に置いてくださいました。わたしが真実を語っても、なおあなたは、騙りとお疑いになるかもしれない。しかしこれが、偽らざるわたしの心です」
 ヴォータンはローゲをひたと見据えた。
「お前にこの世を焼き払えと命じたら、従うか?」
 ローゲは黙した。
「お前だからこそできるのだ、ローゲ」
 ローゲはヴォータンの企みを悟った。
「わたしに際限なき苦しみを与えていたのは、そのためだったのですね。わたしが憤怒と憎悪のまま火焔に還り、ヴァルハラを焼き尽くすことをあなたは望んでおいでだったのですね」
 ご自分の都合でこの世を無きものにするおつもりなのだ。直接手を下すことなく。本当に身勝手で、傲慢で、我儘で、ずるい方だ。
「今また、わたしを解放すると仰るのですか。わたしを原始の状態に戻し、切り捨てると」
「切り捨てなどせぬ。申したばかりではないか、不死が何の役に立つのかと」
「では、ヴォータン、あなたは」
 ローゲは眩暈がした。あまりにも甘美すぎる畏怖に。
 輝く炎の腕に抱かれるヴォータン。神々や英霊、ヴァルキューレたちが座し、壮麗に聳え立つ宮殿ヴァルハラを破滅の光が染め上げ、天上をも焦がし、何もかもを燃やし尽くして無に帰す劫火。
 滅亡の瞬間を鮮明に幻視したローゲは卒倒せんばかりになり、ヴォータンの前にくずおれるようにひざまずいた。息も絶え絶えに告げた。
「ああヴォータン。どこまでもお供します。あなたがわたしの腕の中で息絶えてくださるだなんて、これ以上の幸福がどこにあるでしょう。あなたはただ、ローゲに命令するだけでよいのです。いつだってそうだったではありませぬか」
 永遠にひとつになれるのならば、どんな汚名を着せられてもいい。邪神と名を残してもいい。裏切り者と歴史に刻まれてもいい。
 そもそもわたしは神々に忌み嫌われ、屈辱を与えられるばかりだったのだ、自尊心を踏みにじられ、名誉をまるで持たされず。
 そう、わたしこそが、わたしだけがあなたの代弁者。嘘も、偽善も、欺瞞も、王者に不相応なものは、世界樹の槍に刻まれたルーン文字の契約に悖るものは皆、このローゲが引き受けようとずっとせんから心に誓っていた。我々が共犯者であり共謀者であることを知る者は誰もいない。
 度を超えた忠義は身を滅ぼすとラインの乙女たちは告げた。
 彼女たちの予言は必ず成就する。
 赦しておくれ、聖なる水の乙女たち。欲望に穢れた炎に爛れた世界を、その清冽さできっと清めておくれ。浄化しておくれ。
 最後の日がきたら、わたしはわたしの命を以って贖うから。世界の息の根を絶つ咎、終末を招くことに一片の迷いも躊躇いもない罪、破滅を齎すことに気も遠くなるほどの幸福を味わう業を。
 ローゲは恍惚として、主の足元に身を投げて囁いた。
「この世の果てまでずっと一緒です、ヴォータン、わたしの唯一の神、至高の方」

 智恵の女神エルダの娘、三姉妹のノルンたちは綱を編みながら運命を歌った。ヴォータンは、破砕された槍のささくれた破片でローゲの胸を深々と突き刺すだろう。ローゲの遺体は熱い血潮を噴き出して燃え広がり、薪に燃え移り、すべてを貪り呑みこむだろうと。
 歓喜に猛り、凱歌に躍り、悦びにくねり、のた打ち回り狂い咲く大輪の炎の真紅に抱擁され、黄金に蹂躙され、ヴァルハラが崩れ落ちる。
 華麗に淫縦に舞う不吉に美しい火焔の中で、ひとつの時代が終焉する。
 凋落した神々。その御世の幕切れは、黄昏よりも明るい。

20070826
PREV
INDEX

↑ PAGE TOP