ふるふる図書館


第十ニ章



「先生?」
 校舎を出て構内を歩いていたら、背後でそう聞こえた。若い男のようだ。
 ここには先生はごまんといる。大学なのだから。わたしはそちらに目もくれなかった。
「やっぱり先生だ」
 再び同じ声。どうやら、わたしに向けられていると悟り、振り返った。
 背の高い若者がそこにいた。姿勢がよくすっきりとした体つき。どことなく華がある、人目をひきつける雰囲気。
 誰だろう、とわたしが首をひねっていると、彼はふっと笑みを浮かべた。唇の片端を持ち上げる、皮肉っぽい表情が、映画俳優のようにさまになっていた。
「わからないかな? もう十一年もたつし、ほんの数か月のつきあいだったしね」
 それじゃあヒント、と言いながら、彼はポケットから小さなものを取り出した。
 指の長いてのひらに乗っているのは、冬の日射しにさえきらめく、赤いガラス玉。
 不意をつかれて、わたしはまじまじと、その手もとを凝視した。
 からかうような口調が頭上にふってきた。
「わかったかな? はたしておれは誰でしょう」
「……広海君?」
「よくできました」
 あのころより、多少色白になった広海君は拍手するまねごとをして、くくっとのどを鳴らして笑った。
「おかしいの。先生ったら、呼んでも気づきもしないでどんどん歩いて行っちゃってさ。はるかに大勢の人間に先生って呼ばれる立場になったくせに」
 たしかにわたしは、大学の講師をしていた。
「ひさしぶり、広海君。元気そうだね。日本に帰ってきてたの?」
「まあね」
「すぐにはわからなかったよ」
「おれじゃなくて兄貴だったら、すぐにわかった?」
「千洋君も元気?」
「やっぱり気になるんだろ。先生は、兄貴のことが」
 わたしは、ちょっと笑った。無口で、無表情で、たまにことばを発すればきつくてとげだらけで。刺すような視線で、いつもわたしを見ていた広海君のおもかげが、目の前に立っている若者の姿に重なったからだ。
 今となっては、広海君のことを苦手に感じることはない。こわいと思うこともない。三十歳になった現在、落ち着いた態度でいられるようになったことがわかって、わたしはほっとした。胸を波立たせることなく、なごやかに話ができることが、うれしかった。
「広海君、変わってないね」
「でも、すぐにはおれのこと思い出せなかったんだろ?」
「広海君のこと、忘れてなかったよ」
 わたしは、学生たちの通行を避け、すみのほうに寄った。ペンキのはげかけたベンチがある。目顔で座るかどうかたずねると、広海君は歩み寄って腰をおろした。わたしもそれにならった。
 枝を広げる銀杏の並木道。わたしが講師を務める学校のひとつは、母校だ。この光景は、わたしが学生だったころからたいして変わっていない。
「今日はどうしたの? ここに用事でもあったの」
「おれがここの学生っていう可能性は? 考えないの?」
「考えない。きみの姿を見かけたことないもの。そんなにかっこよくて目立つ人は一度見たら忘れないよ、たぶん」
 広海君は、また片頬で笑い、顔をそむけた。
「先生にとって、おれはやっぱり子供なんだな」
「なにを唐突に」
 わたしは戸惑って、広海君の横顔を見つめた。
「兄貴とは違うんだなってことだよ。先生は、兄貴が好きだったんだろ」
 図星をつかれて、わたしの体温は上昇した気分だったが、広海君は気づかないようだった。
「兄貴だって、あのころはおれと同じ子供だった。当時のおれから見ればおとなだったけど。今、おれは十九なんだ。先生が家庭教師してたころと同じ年齢だよ。だからわかる。十一歳も八歳も、同じ餓鬼には違いないって。
 でも、先生は、兄貴のことも、おれのことも一回も子供扱いしなかったよね」
「そうだった?」
「おれはね、すごくよい子だったんだよ。先生知らなかっただろ。おとなの前ではいつも従順で、素直だったんだ。なのに、先生に対してはそうできなかった。どうしても」
「わたしも子供だったからだよ。美徳なんかじゃないよ、子供扱いしないことは。それに広海君はおとなになったから、もう無効じゃないの」
「十九歳は子供だって、先生が言ったんじゃないか。おれもそう思う。全然おとななんかじゃない。十一年たったのに、先生に追いつけてない」
 それはそうだ。わたしたちは、十一歳も差がある。広海君はまだ二十代にもなっていないのに、わたしは三十路にさしかかった。そう指摘すると、広海君はようやくこちらを向いた。
「でも全然変わってないじゃないか、外見は。そりゃ、考古学なんてやっていてあちこち飛び回るから日焼けしてるし、ちょっと体つきはたくましくなったけど。相変わらず実際の年齢よりはるかに下に見える」
 なんだろうといぶかしく思った。違和感があった。投げやりで、ぶっきらぼうな口ぶりは相変わらずだが、広海君はこんなにしゃべる人だっただろうか。年月をへて、性格が変わったというのは不自然なことではないし、わたしがとやかく言うことではないが。
 なんらかの原因があって、それが彼の口をふだんとちがって軽くしているような印象があるのだ。
「わざわざわたしをからかいに来たわけじゃないんでしょ、広海君は」
「インターネットで先生の居所を調べて来たんだよ、もうちょっとよろこんでくれないの?」
 わたしのもとに来たのは、ただ再会を果たすためだと思えない。そこまで夢見がちなロマンティストではないつもりだ。
「おれがどうしてすぐに名乗らなかったかわかる? 昔みたいに呼んでもらいたかったんだ、広海君って。名乗る前に、思い出してほしかったんだ。先生は、ほんとうに、兄貴のことばかりだったから」
「どうしてそう思うの? わたしは、広海君のことずっとおぼえていたのに」
「そういうことを、さらっと口にできるところがだよ! 昔からそうだ。
 ほんとに、あんたの鈍さにはいらいらするよ。あんたこそ、わざとやってるのか? おもしろがってるのか?」
 きょとんとして、わたしは相手の顔を正視してしまった。広海君の大声に、通り過ぎる学生たちがぎょっとしたようにこちらを見やっているのがわかった。
「ひとつ聞いてもいいかな。わたしは、お姉さんかお母さんがわりだった?」
 決して、そんなふうに見てもらいたくはなかったのだが、返事がイエスだとしても、それは致し方ないことだと覚悟した。
 広海君は凛とした眉を盛大にしかめた。
「なんだそれ。そんなこと思ったこともない。あんたはあんただ」
 どこの誰もが、わたしをわたしという一個の人間として認識する前に、女として見る。それが、とてつもなく苦しかった。わたしはわたし以外の何者でもないのだと。
 広海君の返答に、わたしは全身で大きな吐息をついて、力が抜けたみたいにベンチにもたれかかった。ずっとずっと長いこと望んでいた答えを、はじめて得たのだ。
「不満?」
「ううん。まったくの逆」
 やっと、わたしは借り物ではない、自分の体で呼吸ができたような気がしたのだった。

20060108
PREV
NEXT
INDEX

↑ PAGE TOP