第十三章
広海君と千洋君をわたしが子供扱いしなかった、と広海君は言った。
社会の中で低く見られるのは、女と、子供。女であり子供、二重におとしめられていたわたしは、子供を子供扱いすることができなかったと、そういうことなのかもしれない。
わたしは、大学内の研究室に彼といた。
寒空のもと、好奇の視線にさらされながらふたりで話をつづけるより、ありとあらゆるものがつまったカオスのように雑然としてはいるものの、あたたかい室内で紅茶でも飲みながらのほうがずっといい。
マイセンでもウエッジウッドでもロイヤルコペンハーゲンでもなく、百円ショップで買ったわたし専用のマグと、来客用の紙コップだったが。
幸い、わたしが受け持つ講義は今日はもうなく、研究室も無人だった。
「先生は、女なのがいやなの?」
「女だからという目でみられるのがね。女だから無能だ、女だから弱い、女だから頭が悪い、女だから侮って当然、女だからばかにしていい、女だから自分の価値観を押しつけていい。そういうふうに思われてばかりいたから。
子供だからという目でみられるよりも悔しかった。子供の時代はいつか終わるけど、女は一生女のままだもの。
でも、この歳になるとそういうこともはるかに少なくなるよ。自分が女であることを、ようやく受け入れられるようになれる。
わたし、おとなになることがいやでいやでたまらなかった。おとなになるなんて、ちっともいいことがないって思いこんでた。でも、どんどん生きるのが楽になっていくんだ。自殺なんて、しなくてよかった。死ななくてよかった。自分でお金もかせげるし、好きなように生きていける。
昔のわたしはそういうことがわからなかったんだ」
広海君は、八歳のときと同じように、黙りこくってお茶をすすっていた。それからぽつりと、「おとなになるのはいいこと?」とたずねた。
「わたしはそう思う。死んでいいことなんてひとつもない」
「死んでいいことなんて、ひとつもない? 誰でも? どんな姿でも?」
「誰でも。どんな姿でも。だって、死んでしまったら二度と会えないんだよ。生きていれば、どんな可能性だってあるのに」
広海君は、手にしていた紙コップを握りつぶした。まだ入っていた熱いお茶が、その手をしとどに濡らした。わたしがおどろき、ハンカチを取り出す間もなく、突然こちらに向き直った。
「先生、助けて」
「え。なにを?」
「兄さんを、助けて」
「千洋君? どうかしたの?」
「助けて」
こぶしの中で、紙コップがもみくちゃになっていた。
広海君は交通事故をおこしたのだと、聞き取りづらい声音で訴えた。凍結した路面でスリップし、車は壁に激突。広海君は軽傷ですんだが、助手席に乗っていた千洋君のダメージは大きかった。
「兄さん、ずっと目をさまさないんだ。もうひと月もたつのに。おれがいくら声をかけてもだめなんだよ。おれと一緒に来て。兄さんを助けて。
ほんとうは、すぐに先生に来てほしかった。兄さんは、先生のことが好きだったから」
「え?」
「そうだよ。おれたち、三人で写真を撮ったことがあっただろ。兄さんは、ずっと大事にしてた。病気で高熱を出して寝こんだときも、ベッドの中でずっと写真の中の先生を見てた」
わたしの胸は激しく痛んだ。千洋君が意識不明になったと聞かされたときよりも。
千洋君に、わたしは、何を求めていた? 八つも年下の少年に、奇妙なことに兄のおもかげを追っていた。「汚れた」自分が決して手に入れられない、性とは無縁な美しいものを追っていた。女のわたしが絶対に持ち得ない、崇高な魂を追っていた。
結局、わたしは彼の幻影を愛していたにすぎない。なんという傲慢。彼を守ろうだなんてうそっぱちだ。鳥かごという鎖につなぎ、聖域という檻に閉じこめていただけだ。
それなのに、彼もまた、わたしの中に幻影を追い求めていたとは。むなしい徒労でしかないのに。
「今、兄さんの姿はすごく変わり果てていて、先生に見られるのがつらいだろうと思ったんだ。先生は、前と全然変わっていないし。
それに、先生も、兄さんのそういうところ見たらショックだろうって。兄さんのきれいな顔しか見たことないだろ。子供のときの、天使みたいな兄さんしか」
かつてのわたしだったら、広海君の言う通りだっただろう。やはり、広海君はわたしのことをよく見抜いていたのだ。
よくとおるのびやかな、高い澄んだ声。よけいな筋肉のない、たおやかな手足。細くすんなりした首。わたしをうちのめすほど清らかな容貌。
そのうちにすぐに失うものだと、あのときから理解してはいた。未練がましく、哀惜の念にとらわれるような身勝手さを戒めてもいた。
もう一度、新しく出会いなおすのだ。
「でも先生は、どんな姿でも生きてたほうがいいって言った。だから、だから」
声がくずれる広海君に近づき、わたしはその体に腕を回した。
「兄さんが死んだら、おれのせいだ」
広海君が、わたしの服をぎゅっと握りしめた。ぷっつりと切れてしまったらしい。ずっとはりつめていた緊張の糸が。おそらく、ひと月分の。
広海君は、もしかしたら、あきらめていたのかもしれない。
容態がいっこうによくなる兆しのない兄の看病と、後悔と、重圧と、自責の念で、心身ともに疲れ果てていたのかもしれない。
死なないでほしいと切望する一方で、八方ふさがりの状態に終止符が打たれることをのぞんだとしても、決して広海君をなじる気持ちにはなれない。
「広海君は悪くない」
「でも、兄さんが死んだら、おれのせいなんだよ」
頑是ない子供がいやいやをするようにくりかえした。
それは、広海君がわたしにはじめて見せる幼い表情だった。おどろくほど頼りなげだった。
朝露に重くしなだれる若草の風情で、長いまつげが、涙を含んだ目許をおおっていた。きつく切れ上がった輪郭がかくれ、まるで別人のようだった。
「死なないよ、千洋君は。絶対、絶対もとにもどるよ」
わたしは、力をこめて告げた。
「わたし、兄を亡くしたとき、八歳だった。兄は十一歳。兄はね、わたしが死なせたの。大好きだったのに、わたしが殺してしまった。
その十一年後に、わたしは広海君と千洋君に出会った。わたしは十九歳、広海君は八歳、千洋君は十一歳。自分と兄を重ね合わせていたんだ、心のどこかで。きみたちには、ずっと仲のいい兄弟でいてほしかった。わたしが割りこむ隙間はないって、割りこんだらいけないってわかってた。
そのまた十一年後に、わたしたちはこうして会った。わたしは三十歳。広海君は十九歳。
ね、わたしたちって、似てるかもしれない。わたしは、自分を大事にするように、きみのことが好きなんだよ。
だけど、だから、きみには、わたしと同じ思いはしてほしくない。千洋君は、助かるんだ。助けるんだ。
わたしも力になりたい。広海君のために、千洋君のために、それからわたしと兄のために」
幼子のようにわたしの腕の中で泣く広海君の涙をぬぐいながら、わたしは最近考えていたことを胸のうちで反芻していた。
わたしは、運動神経がいい子供だった。
特に好きだったのが、跳び箱だ。
なにも考えず無心で走って、全力で踏み切ってジャンプして、体がふわっと宙に浮いたと思ったら、次の瞬間には着地している。その一連の動きが最高だった。
一瞬だけだが、風が全身に当たって、空を飛んでる気持ちになれた。
肉体の衰えを感じ始めた近ごろ、わたしはこんなことを思っていた。
いったい、今でも跳べるだろうかと。
あんなに、跳ぶことしか考えずに走って、高いものに突進していけるだろうかと。
こわいだなんて、ほんのわずかでも感じたりしないで。
立ちはだかる跳び箱に、わきめもふらずにとびこんでいって、押しやるように手をついて、かろやかに気持ちよく乗り越える、そんなことが今でもできるだろうかと。
跳び方さえも忘れてしまったのではないだろうかと。
それでも千洋君と広海君のために走り出す力は残っている。
わたしの心の中には、誰も触ることができない聖域がある。それを守るために、わたしは前を向く。
ごめんなさい、神さま。偽りのサンクチュアリだとわかっていても、わたしの大事なものをそこにかくまっていたいのです。土足でふみにじろうとする獰猛な運命から、はずかしめようとする野卑な世界から、そして何よりもわたしから。
ごめんなさい、お兄ちゃん。わたしはもう、二度とお兄ちゃんを殺したりしないよ。
だから、どうかずっと、わたしのサンクチュアリにいて。お兄ちゃんを、わたしの中に大切にしまっておきたいの。あの日みたいに背を向けないで。わたしから逃げないで。置いていかないで。