第十一章
成人式に出席するために、わたしは休日だというのに早起きして、支度をした。美容院で化粧をしてもらって、髪を結ってもらって、振袖を着せてもらって。
振袖は黒を基調にしていて、裾に古風な朱色の梅の模様が散らされている。帯はモスグリーンと金色。着物にまったく興味のないわたしに代わって、母がいつの間にやら呉服屋で選んできた。なかなかセンスがいい。羽毛でできたふわふわの肩掛けもすこぶる上質なものだと、着物に疎いわたしにさえわかった。
まるで人形のように人のなすがまま、言われるままにされているうち、あでやかな振袖をまとった等身大の人形ができあがるっていう寸法。
振袖って、つくづく非合理的な服だ。衣服というより、衣装なのだろう。ひとりで着られない服なんて、まったく日常的ではない。
しかしなにもかも他人まかせっていうのは、奉仕されかしずかれている王族みたいで、おもしろかった。
あれ、おかしいな。コウサカ氏が逐一わたしに手を貸すことには、反発していたはずなのに。
顔にいろいろ塗りたくられ、髪はくるくる巻き上げられ、顔や頭をうかつに掻いたり触ったりできない。
おまけに体は帯でぎゅうぎゅうに縛られ、苦しくて、かがんで草履をはくことも早足で歩くことも容易でない。着崩れが心配で、動作がいちじるしく制限される。まったく、わたしの魂が別人の体に宿っているみたいだ。
体を束縛されるとき、優雅なものごしになるという。化粧がとれるから、すそが長いから、髪の結いが壊れるから、マニキュアがはがれるから、ハイヒールで爪先立ちしているから、野放図にふるまうことができずに気品とやらができるのだ。まるで機能的でない服を着て、あくせく動かない貴族と同じだ。
姿見で自分のかっこうを確認してみた。化粧という名のうすい仮面をかぶっている。仮面は、見たことのない美人だった。
ためつすがめつして、わたしは結論した。
やっぱり別人だ、これは。
母はたいそうはしゃいで、やっぱり着飾れば美人なのよ、お母さんの子だもの、などと言ってはわたしの写真を撮りまくった。親戚縁者にも送るのだろう。
親はどうして娘に振袖を着せたがるのだろうと謎だったが、これも親孝行だと思い、あきらめることにした。
親が自分のことでよろこんでいるのを見るのは、決して悪い景色ではない。
式自体は、特にたいしたこともなく終わった。以前の同級生に会いたいわけではなかったし、とうに色あせた過去に興味もなかった。久しぶりに顔を見ても、別人だという感覚がぬぐえなかった。昔のおもかげとうまく一致しない。見知らぬ人間ばかりって感じだ。
それよりも、わたしはよく晴れた空を眺めていた。千洋君たちはどうしてるだろうか、と考えながら。
美しく澄みきった青空だった。見つめていると、涙がにじんでくるくらい。
でもわたしは泣かなかった。この虚飾の仮面が壊れてしまうから。みっともなく、見苦しく、醜く崩れてしまうから。
同級生との集まりにも顔を出さず、成人式のあとはまっすぐ家に帰った。
隣近所にお赤飯をおすそわけし、まあきれい、すてきな振袖ね、といったほめ言葉をありがたくちょうだいして、別人の自分を堪能してから、重く窮屈な服を脱いで着替えた。
ちょっともったいないけど、母の化粧落としを借りてメイクを丹念に洗い流し、髪にさされた何本ものピンを抜いた。
この日は、わたしの二十歳の誕生日。
両親とわたしが囲む夜の食卓に、誕生日のたびに母が作ってくれるごちそうとワインがならんだ。デザートは、母の特製ババロア。
子供のころ、母のババロアがいちばん好きなお菓子だった。今ではもちろん、ババロアよりも好きなお菓子がたくさんあるが、それでも母は同じババロアをわたしの誕生日にこしらえる。
年に一回、同じ味と香りに出会う習慣がうれしく、楽しい。幼いときに戻れる気持ちになる。両親がいて、兄がいて。わたしが少女でも女でもない存在でいられたときに。
兄の遺影に目をやった。夭逝した少年の思慮深げなおもざしが、一瞬千洋君のものに重なった。
おや、と思って見直したが、兄と千洋君の顔立ちは、これといって似ているところはなかった。どこをとっても。
わたしが美容院で髪を切ったのは、成人式の翌日だった。惜しげもなく、ばっさりと短くした。むきだしになったうなじに、木枯らしがしみた。
体の部品のうち、思い通りにならない箇所がなくなって、身も心も晴れ晴れと軽くなった。
思い通りにならないものなど、ない気がした。
もう、ちょっとした風にもたよりなくそよいだり、ゆらいだりするものは何もないはずだ。
もうひとつ付け加えておけば、このごろ、わたしは「男遊び」なるものはぱったりとやめてしまった。興味と意欲がなくなったっていうのが理由のようだ。
唯一トクラ君とは、いまだに同じような交際をつづけている。彼には、ほんとうに感謝しなくてはならないと思っているけど、恋人同士になる可能性はほとんどゼロだ。わたしには、人を好きになるっていう才能が欠落しているらしい。
鏡を見ながら自答してみる。夏と今とで、わたしという人間はどこか変わっただろうか、と。
汚れた? ずいぶん陳腐な発想だ。それとも、わたしがあまりにも汚れにまみれすぎて、麻痺して気づいていないだけなんだろうか。
だったら、汚れることも悪くない。たぶん。少しだけなら。