ふるふる図書館


第十章



 北野家を訪れる最後の日。
 千洋君と広海君が転校することになった、と北野夫人に告げられたのは、最近になってだった。父親の仕事の都合で、シアトルに渡るそうだ。
 母子だけで日本にとどまるという手段もあるが、息子たちは海外で生活してみたいと希望したとか。ぎりぎりまで移住の決心がつかず、わたしに話すのが遅れたという。
 そのしらせをきいたとき、わたしは意外なほど落ち着き払っていた。
「そうですね。千洋君も広海君も、日本だけにおさまる器ではないですから。いい経験になりますね」
 微笑みまで浮かべて言った。それも本心からだ。
 授業が終わると、千洋君がわたしを見つめた。
「先生、今までありがとうございました」
「こちらこそ、楽しかったよ。千洋君、広海君、元気でね」
「先生、兄弟いるの」
 広海君がたずねた。
「いたよ。ひとつ上の兄が」
「いたって?」
「死んだの」
 広海君は黙りこんだ。
「けんかしたすぐあとだった。仲直りできないままだった。まさかそんなことになるなんて思わなかったから、後悔したよ」
「仲よかったの?」
 広海君が傷をたしかめるような慎重さで聞いた。
「よく一緒に遊んだよ。裏山に秘密基地を作ったり。田んぼにざりがにを釣りに行ったり。空き地に縄文土器のかけらが埋もれてて、掘りに行くのも好きだった。わたしはあまり見つけることができなくて、よく拗ねた。そんなとき、兄は気前よく自分のものをわたしにくれた。ほら、これもそうだよ」
 かばんから、薄紙に包んだ土器のかけらを取り出して見せた。お守りのように、わたしは兄をしのぶよすがになるものを持ち歩いている。少年ふたりが、わたしの手もとを覗きこんで、もの珍しげに眺めた。
「だから先生は歴史を勉強してるの?」
 千洋君の言葉にはっとした。
 兄は考古学者になりたい、と言っていた。顔を褐色に日焼けさせて、重いナップザックを背負い、世界のあちこちを飛びまわり、歴史の謎を解き明かす考古学者に。
 冒険家になるという幼い夢はとうに崩れ去ったが、考古学者になら、なれそうな気がした。わたしが死なせてしまった兄のかわりに。
「そう、そうなんだ。わたしは考古学者になるの。兄の夢を継いで」
 わたしは何度もうなずいた。探していた答えが不意に見つかったおどろきに満たされながら。
 かばんを再びさぐり、赤いビー玉をふたつ出した。内側に不規則に走る亀裂が、電球の明かりを虹色に反射して、きらきらと輝いた。
「きれいだね」
「フライパンで熱したあとすぐに、冷水に入れるんだ。そうすると温度差で、ガラスの内部だけにひびが入る。兄に作り方を教えてもらって、一緒に作った」
「ふうん」
 ふたりは飽かずながめていた。
「これ、きみたちにあげる」
「いいの?」
「うん。そのかわり、約束して。ふたりともずっと仲よくするって。けんかしても、仲直りするって」

 一階におりると、北野夫人にリビングに呼ばれた。
 ほどよく暖房のきいた部屋で、千洋君、広海君と一緒にお茶をふるまわれていると、ゆったりとくつろいだ気持ちになれた。
「突然引っ越すことになりまして、本当に申し訳ございません」
 北野夫人があらためて詫びた。
「先生には感謝しています。先生がいらしてくださるようになってから、千洋が本当に楽しそうで」
 千洋君に似た、おっとりと上品なものごしの夫人の言葉に、わたしは恐縮してかしこまり、ひざに手を置いた。
「いえいえ、とんでもありません。千洋君がもともと賢いんです。わたしは何も」
「広海も、先生がお見えになるのを心待ちにしていましたわ」
 わたしをからかうために心待ちにしているのだろうけどね。と思ったがもちろん口に出さず、広海君を見やった。肌の色によくなじむワインレッドのセーターを着た少年は、何食わぬ顔で品よくお茶を飲んでいた。
「千洋君も広海君も、がんばってね」
 わたしはふたりに視線をそそいだ。新生活に思いをはせていて、おそらくわたしとの別れなどに気持ちを裂いている余裕などないだろうから、簡単に別れるつもりだった。
 もう二度と、千洋君のこの顔を見ることもない。
 出会ったときは、少年とも少女ともつかない、ほんとうに美しい姿をしていた。性別などというものを超越している、というのではない。はなから存在しない。ただ「北野千洋」という絶対的な存在だった。
 それはわたしを衝撃とともに圧倒した。こういう存在がこの世にいるのか、信じがたい思いだった。体中に電流が走る、とか雷に打たれたような、という表現はこのことをいうのかと、身震いの余韻にひたりながら合点した。
 今の千洋君は、おとなの気配が見えはじめ、少年のおもかげとのあやういバランスをとっている。
 あと数か月もすれば、すっかり面がわりしてしまうだろう。わたしの大好きなこの顔がもう見られないということでは、千洋君が日本にいようがシアトルにいようが、同じことだ。
 時間を止めて閉じこめたいなんて不遜なことは、わたしは考えない。千洋君を手に入れようなど、爪の先ほどだって思わない。こういう感情を、なんて呼ぶのか、わたしは知らない。
「それじゃあ、わたしはそろそろ」
 わたしはあっさりと辞去した。親子三人がエントランスまで送ってくれた。
「いろいろありがとうございました。さようなら」
 わたしはすぐにドアをひらいて外に出た。この期におよんで、未練がましく千洋君を見つめるなんて、みっともない気がしたからだ。いつも通りに自宅に帰った。
 時間を共有できなくなったなら、もう関係は終わりだ。それが別れってものじゃないだろうか。たとえばメグミみたいな人間には、理解してもらえない考えだけど。
 もしもこの先再会することがあっても、再会じゃない。だって、わたしの知っている千洋君、千洋君の知っているわたしではありえないんだから。それは新しく出会いなおすってこと。新しく関係を築くってこと。
 でも、たぶん千洋君には、もうこれっきり会わないだろうと思う。
 広海君なら、ふたたび会う日を思い描ける。おとなになり、身長が高くなり、ひきしまった筋肉がつき、恋人とのつきあいかたをおぼえ、小生意気で皮肉っぽい笑みと口調が、精悍になった顔立ちに魅力を添えている。
 そのとき、わたしはにっこりしながら、過去をなつかしむのだろう。
 それでも、広海君とも、もう一度会うことはないだろうと思う。

20060108
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