第八章
足音の主は、わたしの姿を認めてかるく声をあげた。わめきつづけたせいでひどい頭痛にみまわれていたわたしは、無感情に顔を上げて相手を見た。
「おれだよ。ほら、おととい一緒に遊びに行っただろう」
「ああ」
ぼんやりとうなずいた。トクラ君。メグミの恋人の友達のひとりだった。線がほそく、かわいらしい印象を与える。
「なんでこんなところにいるの」
「アルバイトの帰り道だから。トクラ君は?」
「おれのアパート、この近くなんだ」
「ひとり暮らしだっけ」
「そう。ひまなら来ない?」
自分が女の肉体をもっていることを常に自覚し、警戒と自衛に励むことが面倒になった。いちいち人を疑ってかかるのは、あさましい感じがする。わたしは承諾して、あとについていった。三か月前と同じように。
千洋君の家は高級な部類に入る住宅街だが、線路をへだてた反対側は古くからの手狭な住居が軒をつらねていた。
トクラ君の住まいは六畳一間で、雑然としていたが、不意の来客にたえられるほどには片づいていた。辞書やらギターやらが無造作にころがっているのも悪い景色ではなかった。
学部を終えたら、大学院にすすむという話だった。就職組のようなきりきりとした印象がなく、どこかのんびりかまえているように見えるのも、そのせいだろうか。
「缶コーヒーしかないけど、いいかな」
「ありがとう。ギター弾くんだね」
照れくさそうにトクラ君が応じた。
「ちょっとかじったていどだよ。すごい下手。友達が飲みに来たときなんかに弾いて、みんなで歌ったりしてる」
「往年の青春ドラマみたい」
「ただの酔っ払い集団だよ」
しばらく世間話がつづき、会話がとぎれたところでトクラ君がさりげなくたずねた。
「なにかあったの?」
「なにかって」
トクラ君は言いよどんだ。
「さっき、泣いていただろう」
わたしは空になった缶を手のひらでくるくると回した。
トクラ君はいい人らしい。先日も、わたしがみんなのぶんの飲み物を買出しに行くのに、手伝ってくれたりしてくれた。
だが、目的があって親切にしてくれているのかどうかは不明だ。それをいちいちかんぐるのはさもしい気がした。
「わたし、手ごめにされたんだよね」
「え?」
「つまり、男におかされたってこと。今年の夏の終わりにね。相手は、父親くらいの歳の人で、彼氏でもなんでもないよ。だから男の人と接触するのはこわいんだ。でも、こわいのはその人だけなのかもしれない。ほかの人とためしたことがないから、わからない」
トクラ君は、いきなりの重い告白に絶句してしまった。つくづく気の毒だ。わたしはつづけた。
「だからね、トクラ君、実験台になってくれないかな。ちゃんとたしかめておかないと、いざというとき大変だと思うから」
茫然自失の状態からさめると、トクラ君は小声でつぶやいた。
「本気なのか?」
わたしはかしこまって正座をし、真剣に言った。
「やけをおこしているのでも、自暴自棄になっているのでも、投げやりなわけでもないよ。あつかましいお願いでほんとうに申し訳ないし、迷惑だと思うけど、確認する相手は誰でもいいっていうものじゃない。トクラ君だからたのんでいるんだ」
「やっぱり、きみって変わってるね」
わたしの話をどこまで信じたのか、トクラ君はゆっくりと手をさしのべた。
こういう展開になるのは、三か月前を思い起こさせる。でもあのときとは違う。わたしは自分で、この道を選び取ったのだ。
誰のいいなりにもならない。されるのなら、こちらからしかけてやるんだ。
「やっぱりってなにが?」
「そうやって、自覚のないところ。いろいろ、わかってないことが多すぎるよね」