第七章
その当時、わたしは小さな清掃会社でビル掃除のアルバイトをしていた。周りは男ばかりという職場。
若い男性は非常に親切にしてくれた。これくらい自力で持てるよ、というモップやバケツでさえ運んでくれた。あまり無理をするとかえって気をつかわせてしまうのかと思ったわたしは、素直に好意に甘えた。
しかし、おじさん連中は、わたしを陰で仕事ができない女扱いしていた。
「女は仕事ができないから困る」
どんなに男と同じ成果をあげていても、少しも認められなかった。不名誉な評判は、またたくまに言いふらされ、わたしと初対面の人間までわたしに冷たくあたった。
その日、わたしは仕事を終えたばかりだった。着替え部屋などないので、トイレで私服姿になって出てくるなり、偶然来ていた社長に、えらい剣幕で頭ごなしにどなられた。
タイムカードを押していなかったことが原因だった。つまり、仕事を終えた時点で打刻せよということなのだ。着替えは個人的な時間なので。
そんなルールはそれまで誰からも教わらなかった、という言い訳は通用しない。もちろん常識で考えればわかることだから。でも、ほかの人間は? 仕事が終わって、コーヒーを飲んでたばこを吸ってのんびり時間をかけて一服し、退社するおりにタイムカードを押しているではないか。親切な社員のひとりにも、打刻は着替えをしてからでいい、みんなそうしているから、と言われていたのだ。
従順に謝って職場を出たが、ひとりになるとわたしの唇はかってに震え出した。性別によるあまりの待遇のちがいを見せつけられ、目頭が熱くなった。実に不覚なことだけど。
若くて女だからという理由で、過剰にちやほやされたり不当に扱われたり。周囲のかってな思惑に振り回されてばかりいる。いつもいつも。いつもいつも!
いったい、「わたし」はどこにいるんだ。「わたし」は何者なんだ。ただの「若い女」なのか。いやだいやだそんなのは!
そこに出くわしたのが、この人だった。
わたしを食事に連れて行ってくれ、きみにはこういう仕事は合わない、親戚の子が家庭教師を探しているからやってみないか、と話をもちかけたのだった。
そのとき疑いももたずに、言われるままついて行ったのは、痛手から完全に立ち直りきっておらず、まともな思考が戻っていなかったためだった。
また、わたしをそういう目で見る男はめったにいなかったからだった。しかし、それは世間知らずの願望だったのか。
もっと早く女だという自覚が芽生えていて、周囲から女として扱われることに慣れていれば、身を守るすべを会得できていたかもしれない。しかしわたしは、その分野はまったく無知の世界だった。
無力な人形みたいに、表にされたり、裏返されたり。気持ちよさなんて感じなかった。未知の感覚に対するおそればかりで。
「わたし」ではなくて、せめてただの「若い女」だと思ってくれればどうにか耐えられる。
わたしは「女」じゃないんだから。
これしきのことで打ちのめされるほど、わたしは弱くない、傷ついてなんかいない、そう確信していた。それなのに、今のこのざまはなんだ。
そう、痛みは気づかないうちにじわじわと心と体をむしばんでいくのだ。痛みが激しいと、心も体も気づかないふりをつづける。だがふとしたきっかけで、耐えられなくなるのだ。
兄が死んだときも、それほど悲しくなかった。しかし日がたつにつれて、兄には待てど暮らせどもう会えないという認識と、それが自分のせいだという自責と懺悔の念がうずき出し、わたしを押しつぶしていったではないか。
自分の認識の甘さが痛かった。世を儚むほど繊細な心がないのならせめて、ふてぶてしく、どんなことにも動揺せずに生きていく道をえらばなくては。役にたたないプライドにしがみつくなんて、どこにも救いがないことじゃないか。
真っ赤な血に染まった体。真っ赤な罪に汚れた心。
そんなわたしに、他人を嫌いだと拒んではねつける資格はない。許されていない。
赤いしたたりが走る腿。赤いしずくが落ちるシーツ。体内を裂かれた赤い痛み。
そんなのは、取るに足らない、ささいな、なんでもないもののはずだったのに。
「きみはもっと経験をつむべきだな。しかし同年代の若い恋人がいるわけでもなし、僕のような年上もだめときた。
純真無垢な少年が趣味なのか。千洋か広海か、好きなほうをえらんでみるか?」
彼の声は言葉としては耳にとどいたが即座に意味をなさず、一瞬しんとして、しかし再会してからそうであるように彼の目を見ることができず、わたしはその口もとを凝視した。
意味が理解できなかったし、したくもなかった。
「千洋がいいだろう。素直で柔順だから、きみの好みにしたてあげることができる」
頭と手足のさきがじんじんとしびれていたが、自分が、すうっと普段通りの顔つきになっていくのがはっきりとわかった。
「ご冗談でしょう」
かつてきいたこともないほど、わたしの声からは抑揚が消え、異様に淡々としていた。
そのあと、駅までの五分間、どんな会話だったか記憶にない。
駅の入口でわたしは一礼し、改札口までついてこようとする相手を牽制した。
「どうもありがとうございました。ここでけっこうですから」
彼に何か言うすきを与えず、可能なかぎりすばやく人ごみにまぎれた。
改札を抜けてから振り返り、彼の姿がないことを確認し、電車に乗らずに駅を出た。
線路ぞいに歩くと、川の土手に着いた。
誰もいない枯れた草原にひざをつき、倒れこんだ。
耳をつんざく絶叫がひびき、それが自分ののどからしぼり出されているのに数秒遅れて気づいた。
結っていた髪をほどき、かきむしり、体内のきたないものをすべて吐き出すように、叫びは長くつづいた。声がかすれて出なくなっても叫喚はおさまらなかった。
していることが十分わかっていながら、途中でとめようという意志がおきなかった。
自分は気が違って壊れてしまったのではないかと、意識のはしでちらりと思った。
わたしから分裂したもうひとりのわたしがこの滑稽なさまを冷静にながめていて、人の気配を感じたらただちに黙らせようと、注意深く周囲に気を配っているのだった。
だから、足音を耳にしたとたん、わたしの慟哭はぴたりとやんだ。暗がりを幸い、わたしは涙をふき、乱れた髪をなでつけ、なにごともなかったように立ち上がった。