ふるふる図書館


第六章



 週があけて火曜日になった。
 千洋君はおっとりと、広海君はとげのある鋭いまなざしでわたしを迎えた。ふたりともいつもと同じように見え、安心した。仲直りをしたのだろう。
 しかしひとつ変わったことがあった。
 千洋君に勉強を教える際に、広海君が同席したいと言い出したことだ。妨害しないというのを条件に許した。
 広海君は気に入りの籐椅子とクッションをもちこみ、兄からもらったという蜂蜜色のテディベアを胸に抱いてわたしたちに加わった。
 すぐに飽きて座を離れるかという予想に反し、千洋君のとなりでがんばりつづけた。
 千洋君が先日打ち明けた話を、とうてい信じる気にはなれなかった。兄をぽっと出の女に独占されるのがいやで見張っているとしか思えない。この少年とわたしは、同志なのだ。
 でもね。わたしは千洋君を横取りしようなんて、これっぽっちも思っていない。だから広海君、そんなに目を光らせる必要はないんだよ。
 勉強が終わったとき、広海君が例によっていきなり質問した。
「先生は、将来先生になるの?」
 例のごとく虚をつく質問だった。ぎくりとした。どんな職業につきたいのか明確でないことを、見透かされたような気がしたから。自分がおとなになっているところ、社会人になっているところを、どうしても想像できないのだ。
「そうだね、教師にはならないと思う」
「どうして今は先生をやっているの?」
「それは、広海君と千洋君に会うのが楽しいからだよ」
 そう答えると、広海君は、それ以上聞いてこなかった。おとなしくされるのは、かえって気味が悪いものだ。
 辞去する時刻になった。
 ふたりとともに一階へ降りていくと、兄弟の母親である北野夫人が待っていて、いつも息子がお世話になっております、と丁重にあいさつをした。
 顔を合わせることが少ないのは、いつも留守がちなせいだ。息子たちと違って。母がいないことは昔からなので慣れています、と千洋君がいつか口にしていた。もちろん夫人は、働いて所得を得ているわけではない。そんな必要は微塵もない。
「よかったら、お食事をいかがかしら」
 わたしが口をひらくより早く、ひとりの人物がリビングから姿を見せた。
「やあ、元気そうだね」
「叔父さん。いらしていたんですね」
 北野夫人の従兄弟にあたる人だった。わたしの以前のアルバイト先の上司で、千洋君の家庭教師というアルバイトを紹介してくれた人物だ。会うのは久しぶりだった。
「ごぶさたしています」
 内心を押し隠して会釈するわたしに、彼は言った。
「夕食は食べていくんだろう」
 背の高い相手のネクタイの結び目あたりを見ながら、わたしは答えた。
「いいえ、せっかくですが、今日は用事があるので。失礼します」
「まあそう。残念ね」
「申し訳ありません。次に機会がありましたら、ぜひお誘いください。では、わたしはこれで失礼します」
 誘いに応じる前に彼がいることがわかってよかった、とひそかに胸をなでおろして頭をさげた。彼が申し出た。
「夜道は危険だ。駅まで送っていくよ」
「お気づかいありがとうございます。慣れていますし大丈夫ですから」

「ずいぶん早足だな」
「急いでいるんです」
 結局、見送りを辞退しきれなかった自分に嫌気がさしていたわたしは、スニーカーのつまさきに視線を落としたままだった。
 街灯を通り過ぎるたびに濃度を変えてのびちぢみする影法師を熱心に観察するふりをして、どうにか駅までやりすごすつもりでいた。
 彼の手が、いきなり肩に置かれた。わたしは、どきりとした。これはなにも異常なことではない、と我が身に言いきかせ、どうにか落ち着きをたもった。
「女の子らしくなったね」
「髪がのびただけです」
 手をふりはらおうかと迷ったが、そのまま我慢した。彼のことを意識していると思われるのがいやだったから。
「それだけじゃない。前よりも輪郭がやわらかくなった。頬やうなじの線がね。なぜ僕を見ようとしないんだ。せっかくふたりきりになれたんじゃないか」
 薄闇の中、睦言めいたささやきをつづけられ、誰か通ればいいのにとわたしはむなしく周囲を見渡した。家々からもれる声が遠い。ひとけがまったくない。これも、計算のうちだったのだろう。
 ダッフルコートのあわせから、男の手がすべりこんだとたん、わたしの理性は音もなく崩壊した。
 のどからしゃくる声がもれ、無我夢中で相手の腕をつかんでひきはがした。あのときは出なかった涙が、目からあふれて、ぼろぼろとこぼれた。
 取り乱した自分はぶざまで醜いな、と頭のすみっこで考えた。
 嗚咽にむせぶわたしから、相手は身をひいた。
「いったいどうしたんだ、いやなのか」
 あのときもいやだと、幾度も叫んだのに、なぜ今さらこんな間抜けなことを聞くのだろう。
 三か月前のできごとが鮮烈によみがえった。どういうものなのか想像してみたことはある。が、我が身にふりかかってみると、はなはだ散文的だった。笑ってしまうほど。

20060108
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