ふるふる図書館


第四章



「ただいま」
 涼やかな声がきこえてきた。広海君は敏捷に席を立ち、兄を出迎えに走った。
「お帰り、兄さん」
 この少年がわたしをうとましがる理由は、実にわかりやすい。わたしまでエントランスへ向かうのは争うようでおとなげなく、腰をおろしたままでいた。
「ごめんなさい、先生。遅くなって」
 弟と一緒にリビングに入ってきた千洋君が、コートを脱ぐ間をおしんでちょこんと頭をさげた。大きな襟のあわせに飾りボタンのついた、裾がやや広がった濃紺のコートと、深紅のマフラーと、真っ白い肌との対比があざやかだ。
 寒い中を急いで来たのか、なめらかな頬が薔薇色に染まっていたが、唇はさらに赤く、めざましかった。
「大丈夫、広海君が話し相手になってくれてたから」
「また失礼なことを言ったりしていなかっただろうね」
 千洋君はおっとりとした口調で、弟をにらんだ。広海君は肩をすくめて憎まれ口をきいた。
「おじゃま虫は消えよっと。兄さんは、先生がお気に入りだから。よかったね、先生」
「広海」
 兄にたしなめられた広海君がぷいと行ってしまったあと、千洋君は困り顔でわたしに謝った。
 眉間にきれいにならんだたてじわが、なんとも愛らしい。
「すみません。弟は子供で」
「かまわないよ」
 笑ったものの、子供の発言だからと聞き流すことに失敗している自分に気づいていた。
「広海君は、お兄さん子なんだね」
 千洋君は複雑な笑みを浮かべ、そうでしょうか、とつぶやいた。
「ぼくの部屋に行っていてください。手を洗ってきます」
 言い置いて、千洋君は洗面所に消えた。手のひら、手の甲、指の間、爪の先までせっけんの泡をころがして正しく手を洗うさまがはっきり脳裏に浮かんだ。小学校の水道のところに貼ってある、正しい手の洗いかたそのままのやりかたで。
 もちろんうがいも欠かさない。厳しくしつけられた行儀のよい子供の証だ。
 きわめておおざっぱな庶民的家庭でおおざっぱに育てられたわたしとは、雲泥の差。月とすっぽん。提灯に釣鐘だ。
 そう、わかってる。わたしがここにいるのは、場違いなんだって。

 さまざまな舶来品が、飾り窓のついたキャビネットに並べられている。
 鵞鳥の羽ペン、ガラスのインクつぼ、貝殻の標本、紫水晶の原石、凝った意匠の万華鏡、オルゴール。
 粋で洒落たものばかりが、千洋君の部屋を占めていた。海外出張の多い父親からの土産品なのだという。
 すぐそばにならんで机に向かっていると、冬の針葉樹林を歩いているときの香りがする。かわいた葉をぱりぱりと踏むと、足もとから立ちのぼってくるつんとしたすがすがしい香り。それとも、けずった鉛筆の、かぐわしくて新鮮な匂いだ。胸がすっとするような。
 みずみずしい瞳、形のよい口もと、しなやかなうなじ、指の長い手、のびやかな脚。練習問題に取りくむ真摯な横顔には、うつろいやすい少年らしさが影になってさしている。
 唇は、ほころんだ紅薔薇だ、我ながら陳腐な表現だけど。しっとりとつややかで、極上のビロードみたいで、すがすがしい芳香の花びら。もし口にふくんだら、きっと甘くてほろ苦いのだろう。
 肌の白さは青みを帯びていて、ひんやりくっきりとしたあざやかな色がよく似合う。純白、漆黒、真紅、パステルピンク、パステルブルー。
 わたしの肌は黄色みが強いから、そういう色の服はとうてい着られない。
 オレンジ、カーキ、ベージュ、マスタード、くすんでぼやけた色合いのものばかり。銀もプラチナも似合わない。
 あたたかみがある肌の色、なんていうけど、あいにくわたしはあたたかみなど持ち合わせていない。なのにみんなが誤解する。
 夏の空に燃える、おしつけがましい黄金の太陽はわたしはいらない。
 冬の空に浮かぶ、冴え冴えとした銀の月の千洋君がいればよかった。
 利発で聡明な教え子のおかげで、給金に見合った仕事をしていないのではないかと自省の念にかられたのは、最初のうちだけだった。
 千洋君の質問は確実に的を射ており、大学で得たばかりの知識を披露することもたびたびだった。
 ひかえめでやわらかな口調の問いかけは、広海君のそれとちがって、わたしをへどもどさせることがない。いつでもすらりと答えることができた。
 千洋君は、わたしの声をひとことも聞きもらすまいと真剣に耳をかたむけてくれる。
 わたしは思い返した。知識に飢えていたころのことを。貪欲に、次々と吸収したがっていたころのことを。博識だったコウサカ氏は、その点だけでも十分敬意に値する人物だった。

 コウサカ氏は、どんなことでも教えてくれた。彼に出会って、わたしの世界は格段に広がった。大学に行く決心をしたのも、コウサカ氏のおかげだ。
 彼の話は刺激にあふれていたから。
 どんなささいなことでも聞きもらすまいと真剣だった。
 尽きることなくもたらされる知識を吸収することが、楽しくてしかたなかった。
 高尚で美しいものを、彼は深く愛していた。
 薔薇の花を好んでいたから、リルケの詩もよくそらんじていた。
 リルケは薔薇のとげに刺されて死んだんだよ、と夢見がちに語ってきかせた。
 それがくすぐったくて、面映くて。
「そんな話はできすぎだね」
 わたしはいかににべのない返事で、彼をがっかりさせられるかということに腐心した。
 誕生日には、薔薇の花束がとどいた。
 どうしてよいのかもてあますプレゼントがあるということを、はじめて知った。
 ずっと取っておくわけにもいかず、かといってドライフラワーにするのは、失われゆくみずみずしさにみっともなくしがみつくようで未練たらしい気がした。
 重みがあってつややかでひんやりした、真紅の花びらをそっと口に入れてみた。
 香りは甘いくせに、味は苦くてまずかった。
 次に会ったとき、気に入ったでしょうとさも当然のように言うから、どうせなら違うものがよかったのにとわたしは憎まれ口をたたいた。
 すると、小さいけれどほんもののダイヤモンドをあしらった首飾りが贈られた。
 ダイヤモンドはかがやきがぎらぎらしていて、ちっとも好みではなかった。
 どうせ石をくれるなら、アンモナイトの化石や蛍石の結晶がよかった。
 そう申し立てても、彼は、わがままな妹を見る過保護な兄のようなまなざしで、困ったようにやわらかく微笑むだけだった。
 その態度が、わたしの自尊心をいたく傷つけた。たしかにわたしは子供だったが、それでもいつでもまじめだったのだ。
 子供のいうことを辛抱強く聞いてやっている、という態度が透けて見えて、がまんできなかった。
 彼は、リボンやフリルやレースで、わたしを飾り立てようとしていた。
 どうにかして、自分好みの少女に仕立てようとしていたようだった。
 従順な、愛玩人形。彼の意識と知識を余すことなくしこまれた、彼の分身。彼がほしがったのは、わたしによく似た人形だ。
 わたしは、そんなものは欲しくないと反発した。縛りつけないでとかんしゃくを起こした。
 したり顔でいちいち指図されるのも、ドアを開けてもらうのも、椅子をひいてもらうのも、お前は劣った人間だと言われているのに等しかった。
 それくらいひとりでできるのに、と叫びたかった。
 相手に求めるものがこうも食いちがっては、交際は苦痛になった。望みにこたえることができない、と身にしみたとき、わたしは会うのをやめた。
 それなのに、入念に植えつけられた美意識とやらは、わたしにしっかり根づき、いつまでも離れていかない。
 無知で野蛮な少女だったころには戻れない。
 でも美に耽溺しきった彼のようには到底なれない。
 わたしは、ほんとうに、何者になりたいんだろう。

 ノックの音が、わたしと千洋君の会話をさまたげた。
「兄さん、開けて」
「広海、今勉強中なんだよ。あとにして」
「うそだ、楽しそうに笑っていたくせに。それに時間はとうにすぎてる」
 広海君の声はせっぱつまっていて、わたしはドアノブに手をかけた。千洋君は柳眉をひそめた。
「弟はじゃましようとしているだけです」
「でも、こんなにドアをたたかれたら、ほうっておけないよ」
 ドアを押すと、広海君が入ってきて、わたしには一瞥もくれずに兄に近寄った。千洋君は小首をかしげて叱った。
「じゃましてはいけないって言っておいたのに」
「だって、ひとりでつまらないんだもの」
 広海君は甘えた口調で、兄にしがみついた。わたしは、少しからかってやりたくなった。
「甘えん坊さんだね。そんなにお兄さんが好きなの」
 広海君はことさら顔をそむけて、千洋君にいっそう寄り添った。
「違うよね、広海。ほんとうは先生のことが好きなんでしょう」
 広海君ははじかれたように体をはなした。
「兄さんの、ばか」
 甲走った声で叫ぶと、部屋を走り去った。
 わたしは立ち往生した。展開についていきかねたためだったが、あの日、兄に大嫌いと叫んで家を飛び出た自分の姿が見えた気がして、一瞬胸がしめつけられた。
「追いかけなくていいの」
 かるくためいきをつく千洋君をうながした。
「でも、ほんとうのことだもの。弟が、こんなに誰かになついているのは、はじめてなんです」
「なついているって、わたしに?」
 わたしはあっけにとられた。千洋君はうなずいた。
「こんなふうに絡んでくるのは、先生のことを気に入っているから。そうでなければ、近づきもしないです、広海は」
 なんだかおかしくなった。
「そうなの。はじめからそう言ってくれればよかったのに」
 千洋君は長いまつげを伏せた。目のふちがほんのりと赤くなっていた。
「言いたくなかったんだ」
「どうして?」
 わたしがたずねても、千洋君は答えずに、いっそう頬を染めてうつむいた。
 ほんとうにきれいな子だな、とばかみたいにみとれていて、彼の沈黙の意味をまるでわかっていなかったのだ、わたしは、このとき。

20060108
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