第三章
三十分ほど電車に揺られてから下車し、まっすぐにのびたれんがづくりの歩道を歩いてアルバイト先へと向かった。
辻ごとに、りすやうさぎの小さな像がたてられた瀟洒な住宅街は、家庭教師の仕事というきっかけがないと、近寄ることさえない場所だ。
並木道のプラタナスは、葉をほとんど落としていた。静寂に、時おり鋭い鳥の鳴き声がひびく。足もとで枯葉がひそやかな音を立てて通り過ぎていった。
赤い実がたわわについた木のある庭さきを右に折れ、三軒行くと、その住宅に着く。
週に二回、火曜日と金曜日に訪れるようになって、三か月たっていた。
十一歳の千洋(ちひろ)君は頭の回転が速く、のみこみもよい教え子だった。わたしのようにできの悪い家庭教師をわずらわせることは、皆無にひとしい。
門扉の前で、クロノグラフタイプの腕時計に視線を落とした。約束の時刻ちょうどなのを確認して、呼び鈴を鳴らした。
「先生、いらっしゃい」
ぶっきらぼうにあいさつしたのは、千洋君の三歳年下の弟、広海(ひろみ)君だった。
千洋君と似ているところを探すのは、顔立ちの上では至極むずかしい。白いカーディガンがよく映える小麦色の肌に、なにもかも見透かそうとするようなきつく切れ上がった瞳をしている。
わたしのことを先生と殊勝げに呼ぶが、ほかに呼びようがないからというのが、その口もとからありありとわかる。十歳年長のわたしを、あんたと呼ばわるわけにもいかないから、仕方なくとでも言いたげな。
実際、わたしは先生と呼ばれることに抵抗があるので、それを敏感に察しているのかもしれなかった。とはいえ、本名で呼ばれるのも自分でなくなる気がして、好ましくなかったが。
わたしはいったい、何者になりたいんだろう。何者にもなりたくない、のかもしれない。
「兄さんはまだ帰ってきていないよ。残念でした」
生意気で挑戦的な口ぶりに、平静をたもとうとつとめた。表情を変えたり頬を上気させたりすれば、たちまち見抜かれる。
すすめられ、ふかふかのじゅうたんを踏んでリビングに入り、ソファに座って千洋君を待った。
広海君が、トレイを両手に捧げ持ち、あたたかい紅茶の入ったティーカップをわたしの前のガラステーブルに置いてくれた。マイセンだかウエッジウッドだか、わたしはそのあたりにはまったく通暁していない。
「ありがとう」
礼を言っても、ついと横を向き、にこりともしない。感動的なまでに愛想がない。と思っていると、相手はふと口をひらいた。
「ねえ、先生はおとななの。子供なの」
とっさに答えに困った。広海君と対していると、自分が愚鈍な人間になる気がする。反撃や、はぐらかした適当な回答を許さない雰囲気が、この少年にはあった。
ありていにいえば、苦手意識がこちらにあるということだけなのか。
十歳も年下の子供にうろたえてどうする。こんなだからなめられてばかりなのだ。
下手をすれば中学生にまちがわれる外見をしているから、そんなことをきいたのだろうか。
「どうなのかな。十九歳だから、まだ子供だと思う」
「ふうん」
気のないあいづちをうち、黙りこんだ。おもしろみに欠ける返事だったせいか? 広海君の視線はいつもわたしをどぎまぎさせ、気の利いた受け答えをできなくする。
不意をつく唐突な質問は、今に始まったことではない。先日も、千洋君のいる前で、先生は恋人がいるの、とやられたばかりだ。
いないよ、とわたしは答えた。
「今まで、一度も?」
食い下がられて、わたしは少し考えた。千洋君はごくまじめな顔つきで、黙然とわたしを見ていた。
「いなかったね」
「なんだ、つまらない」
広海君は口をとがらせた。はいはい、そうですか。悪かったね。と言い返すわけにはいかない。
「そう言う広海君はどうなの。好きな人はいるの」
いささかのためらいもなく即答が返った。
「兄さん」
「ずるいなあ、そんなの」
わたしは、一言も口をはさまずに会話をきいていた千洋君に目を向けた。
「千洋君は?」
精一杯さりげなさを装った声でたずねたが、完全に成功したか疑わしかった。
千洋君は、切れの長い明るい瞳をみひらき、赤くなった顔を伏せた。
ああ、やっぱりいるのか。
わたしの胸はかすかに痛んだが、嫉妬にかられるほど身のほどをわきまえない人間にはなりたくなかった。
そんな自分に半分安堵し、半分つまらなさをおぼえた。
千洋君のことを子供だとみなすこともできない、わたし自身もまだ子供だという自覚がある。まだ、千洋君と近しいものでいられていると思う。
なのに、千洋君と同じ目線で世界を見て考える感性をなくしつつあることに、気づかざるをえない。壁がある。いやおうなしに、少女という存在を離れつつあることを実感してしまう。
だからといって、おとなにもなりきれていないのに。
これが、十九歳という年齢なのか。
少女は失われゆく。おとなにはまだ仲間入りすることさえかなわない。わたしはいったい何者なのだろう。