ふるふる図書館


第ニ章



 わたしが史学科に籍を置く大学は、電車で約一時間のところにある。混雑時でなければたいてい席に座れるので、本を読みながらゆったりと通学することができた。
 金曜日は、一時限目にインド哲学史、二時限目に社会教育学、三時限目にドイツ語が入っていた。
 キャンパスは小さく、行きかう学生たちは顔を見たことがある者ばかりだ。すっかり葉を落とした銀杏の並木道の入口に、掲示板が立っている。メグミがやって来て、わたしの横から掲示板をのぞきこんだ。
「おはよう。何か休講ある? あ、ドイツ語今日ないんだ。ラッキー。ちょっとさ、帰りにつきあってくれない? どうせ、何も予定ないでしょ。服買いたいの」
 わたしが返答するより早く、彼女は矢継ぎ早にたずねてきた。
「そういえば、最近コウサカさんとはどうなの? うまくやってる?」
 わたしは高校二年の夏休み、メグミと同じレストランでアルバイトをしていた。アルバイト初体験のメグミに、一緒にしようと誘われた。
 ひとりじゃ不安だし、パパもママも心配するからというのがその理由だった。わたしがついていればメグミも親御さんも安心なのだそうだ。
 仕事内容は給仕とレジと清掃。清掃係は当番制だったが、バイト仲間の女の子たちに、よく交代してくれとたのまれた。接客のほうが楽なのだとか。めったに断らなかったわたしは、ほとんど清掃係に徹していた。
 別に、彼女たちに親切にしたかったわけではない。知らない人間ににこにこしてみせるより、ひとり黙々とモップで床をみがいているほうが性に合っていたというだけ。ただの利害の一致だ。
 コウサカ氏はその店の社員だった。十歳年上の。
 わたしは眉をひそめた。なんだって、多くの人は恋愛話が好きなんだろう。そのうえ、相手もそうだと決めてかかるのだろう。
 メグミと知り合って長いが、その間わたしに浮いたうわさがひとつもない。だから、せんさくしたくもなるのだろう、と納得することにして、問い返した。
「どうって?」
「つきあってるんでしょう?」
「ちがうよ」
「どうして。コウサカさんのほうはずいぶんその気みたいだったのに。嫌いなの。いい人だよ?」
 いい人ってだけで恋人になれるなら、自分がつきあえばいいのに。
「嫌いじゃないけれど。異性とは、恋人か恋人候補としてしかつきあっちゃいけないわけじゃないと思う」
 メグミはあきれ顔でためいきをついた。
「またそんな理屈こねて」
「あの人はわたしを、わたしという人間として見てないから。女というフィルタを通して見ている。それって少しちがう気がする」
「恋愛なんて、そんなものでしょ、だいたい」
「ふうん。それなら、しなくていいよ。したいと思ったこともないしね」
「一生彼氏なしでいいの?」
「いないからって困ったことはないよ」
「ほんと、信じられない」
 それはわたしもだ。どうして、みんな、こういうことがらに懸命になれるんだろう。
「中学のときも高校のときも、男子にもてていたじゃない」
「そうだっけ?」
 指摘されて、わたしは首をひねった。たしかに、告白というやつをされたことはあったが、ただわたしを困惑させるだけだった。受ける理由はなかったが、断る理由も見つからなかったから。
 わたしの感情が恋愛に発展する可能性は、たぶんゼロだから、なんていう説明で相手は納得するのだろうか。きっぱりと断るのは、相手に気の毒かと思うと、いまひとつ踏み切れない。こういうことに巻きこまれるのは、正直荷が重かった。
「そうだよ。隠れファンが多かったんだから」
「へえ。初耳」
 特に高校生のときは、中学時代のあるできごとがもとで、身近に男子を近寄せないようにしていたのに。その努力はむだだったということか。
 ああどうしてわたしは、男の子に生まれなかったんだろう。
「もしかして、男の子が嫌いなの。女の子がいいなんて思ってるんじゃないの」
「さあ、どうだろうね。誰にも恋愛感情をいだいたことないからわからない」
 メグミは、わたしが冗談を口にしたと思ったのか、やだあ、とかなんとか言いながらわたしの腕をたたいてはしゃいだように笑った。
「あ、そろそろ教室に行かないと。二限が始まっちゃう。じゃあね。
 今日はアルバイトがあるから、買い物にはつきあえないよ。悪いね、ほかの人誘って」
 さっさと歩み去りながら、やはり髪は一刻も早く切ってしまいたいと思った。

20060108
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