ふるふる図書館


第一章



 目がさめると、体も心もぐったりと重く、けだるかった。
 すぐに起き上がる気になれずに横たわっていると、意識が夢とうつつを行き来して、過去の光景にとんだ。
 八歳のわたしが懸命に、自転車で遠ざかる後ろ姿についていこうとしている。
「待ってよ、お兄ちゃん」
 呼んでも叫んでも追いかけても、兄は振り返らず、ぐんぐん小さくなり、見えなくなった。
 それまで常に兄の後ろについて回っていたわたしは、はじめてのことにおどろき、泣きながら家に帰った。
「お母さん、お兄ちゃんに置いて行かれちゃった。いつも公園に一緒に連れて行ってくれるのに」
 母はしゃがみこんで視線を合わせ、ゆっくりとさとした。
「お兄ちゃんは、男の子どうしで遊ぶほうがいいの。お前も女の子なんだから、女の子の友達と遊ぶようにしないとね」
 母の言葉に、先日のできごとを思い起こした。いつも通り、兄やその友達にくっついて裏山へ遊びに出かけたときのことだ。
 わたしは年上の少年たちの足の速さについていくことができなかった。そのうえ、一行のうちでももっとも小柄な少年が登れた木に登ることができなかった。
 屈辱だったしくやしかった気持ちがまざまざとよみがえった。
「お兄ちゃんはわたしがじゃまなんだ。足手まといなんだ。どうしてわたしは女の子なの? 男の子じゃないの?」
 兄と共同で使っている勉強部屋に閉じこもって、泣きじゃくった。
 部屋がうす暗くなったころ、玄関で物音がした。ただいま、と兄の声がした。
「泣いてるの?」
 兄が部屋に入ってきたのが気配でわかった。
「ごめんね。謝るから泣かないで。さ、一緒にごはん食べよう。ね?」
 心外だった。夕食ごときにつられて棚上げにできるわけがない。腹立たしくなった。
「食べたくない。お兄ちゃんは、わたしがいないほうがいいんだね? だから置いてきぼりにしたんだね」
 兄が背中にかけた手を、激しく振り払った。
「お兄ちゃんなんて、大嫌い!」
 叫んで家を飛び出した。
 夕間暮れの町を走るわたしの耳に、大きなブレーキ音と衝突音がひびいた。つづいて複数のおとなの声が。
「子供がトラックにひかれたぞ!」
「救急車呼んで、早く」
 妹を追いかけるのに夢中になって、信号無視して道路を横断した兄が、大型トラックにひかれたのだった。
 即死だった。
「最後にお兄ちゃんに言った言葉が、大嫌いだなんて。二度と好きだと言えないなんて。
 わたしがお兄ちゃんの気持ちを拒んだから、神さまがばちをあてて、わたしからお兄ちゃんを取り上げたんだ。
 誰かに嫌いなんて、もう絶対に言わない」

 完全に覚醒した。
 十一年前に兄が亡くなって以来、ひとりで使っている部屋に、わたしのベッドはあった。
 このだるさは、すっかりなじみになった感覚だった。あたらしい月のめぐりがはじまったのだとわかった。
 小学生のころは冒険物語が大好きだった。放課後の図書室のすみで、先生にもう帰る時間だと告げられるまで、胸をおどらせて読んだ。自分にもいつかそんなことが起こるかもしれないと、幼い空想にふけったりもした。
 だが初潮を迎えたとき、ぱったりと読むのをやめてしまった。仲間はずれにされたも同然の疎外感をおぼえたのだ。
 生理用品をたずさえて冒険の旅に出る話など、読んだことがなかった。無人島に漂流したら、どこから調達すればよいのか書いてある本にも、わたしは出会えずじまいになっている。
 なんだか、ずるい。不公平だと思う。
 上半身を起こすと、顔に髪がかかった。うっとうしくて、手で振り払った。
 髪が長くなるにつれて、よけいな動きが増えたし、よぶんなことに注意を払う時間が多くなった。かきあげたり、たばねたり、くせをなおしたり、乱れていないか鏡で点検したり。まるで女みたいだ。
 そういった注意力は別のところに使いたいと思う。そう言ったら、笑われるのが関の山に決まっているけど。
 この髪は、成人式に振袖を着るなら長いほうが映えるという、それだけの理由。だからあとひと月の辛抱だ。
 両親が、わたしの振袖姿を楽しみにしているので、むげに自分の意志を押し通すわけにもいかなかった。客観的に見ても、長い髪なんてまるで似合わないのに。
 長さが変わるだけで、こんなに扱いにくいしろものになるなんて。頬や首にまとわりつき、心にからみつき、行動をしばりつける枷だ。
「そろそろ起きなさい」
 階下で母が呼ぶ声がした。
 下腹の鈍痛をこらえて、わたしはベッドを降りた。パジャマや下着を汚していないか心配しながら。一度ついた汚れは完全に落ちない。
 みっともなくしみのついたものを、嫌悪感をがまんして使いつづけるか、捨てるかしかない。
 このさきいったい、何枚汚して捨てていくんだろう。下着を、パジャマを、シーツを、マットレスを。月ごとに、そのことを心配して生きていくのかと思うと、ためいきがついて出る。かんしゃくを起こしたくなる。
 神さま、どうしてわたしを女にしたんですか?
 なぜこれ以上、わたしの存在を赤く汚していくんですか?
 もう充分、わたしの両手は罪で真紅に染まっているというのに。

20060108
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