第八話
健康が取柄の僕としたことが。風邪をひいてしまった。
ごほんごほんと派手に咳きこんだら、すぐそばで朝の身支度をととのえていたルームメイトは、しんそこいやそうな目つきをした。
「寄るな。うつる」
僕自体がばいきんであるとでも言いたいような口ぶりで、しっしと手で追い払う。
「うん。学校は休むよ。一日寝てる。先生によろしく」
彼の冷酷な仕打ちにためいきをつく気力すらなく、僕はベッドに逆戻りした。
金槌で中から叩かれてるみたいに頭ががんがん痛む。
そのまま一気に眠りにひきずりこまれた。彼が出て行く物音がかすかに耳に届いた。
安らかではない夢をいくつも見ていた気がする。
眠りが浅くなり、現実との間を行ったりきたりするようになり、次第に目がさめてきた。意識はまだはっきりせず、朦朧模糊としている。気だるいまま、ぼんやりと室内を眺めた。
カーテンを閉めているから、何時なのか見当がつかない。
室内はしんとしていて、僕の呼吸だけが空気を揺らしていた。
そう、だよな。誰も見舞いに来るはずない。
心配してくれるとしたら、後輩のあの子くらいか。だけど学年がちがうから、僕がひとり臥せっているのも聞いていないかもしれない。
みんな今ごろ何してるんだろう。元気に楽しく健やかにのびのびと学校生活を満喫しているんだろうな。僕がひとりぼっちで苦しんでいる間に。
世界中から見放され、取り残されたようなよるべなさが僕を押し包んだ。
ふだん、体調を崩すことなどないから、ちょっとしたことで気弱になってしまうみたいだ。
静まり返った沈黙が、毛布と上掛けごしに重たくのしかかってくる。
ああ、誰かの顔を見たいなあ。彼、まだ帰って来ないのかな。
そのとき。
ざーっという水音が洗面所のほうから聞こえた。
人がいる?
僕はあわててまぶたを閉じて、気配に神経を集中させた。
こちらへ足音が近づいてくる。まちがいなく彼のものだ。
額に、ひんやりとした感触が広がった。冷たい濡れタオルを載せてくれたようだ。
看病している? 彼が! 僕を! 看病している!
明日地球は終わるんじゃないか。本気で怖い。
全人類の命運を一手に握っている彼は、ふとんを肩までかけなおしてくれたが、立ち去る気配がない。僕のそばにたたずんでいるらしい。
なんだ? なんだ? 落ち着かないじゃないか! 病人をゆっくり寝かさないつもりか!
そういえば、僕は彼の寝顔を見慣れているけれど、彼に寝顔を見せたことはめったにない。こんなにきまりわるくて照れくさいものだとは。毎朝寝姿をさらすことにやぶさかでない彼の神経を僕は疑いたいと思う。
そんなにとっくり観察されたら緊張するって! 僕はまな板の鯉か!
ふわっと空気が動いて、彼が身じろぎしたことを教えた。
本能的に危険を察知し、こわごわ薄目を開ける。その瞬間。
「!!!!」
無音の悲鳴が腹の底からほとばしった。わあとかぎゃあとかうひゃあとかいう声にするゆとりすらない。
僕の異変に気づくやいなや、彼はすっと上体を起こした。あきれきった表情と口調を余すところなく惜しみなくあらわにする。
「口を間抜けにぱくぱくさせるな、貴様は鯉か」
やっぱり鯉か。
「だって、だってびっくりするよ、いきなりきみの顔が間近にあったら!」
しゃがれたのどに苦しく咳をまじえながらなので、まことに残念至極なことに、抗議も弱々しく痛々しくなってしまった。
「何かされるとでも思ったのか? 熱が下がったかどうか、額と額をくっつけて測ろうとしただけだろうが」
腕組みしながら、ひややかに言う。
「ああ、そう……」
「薬、飲んでいないだろ? 仕方ないから食事の用意もしてやったぞ。貴様に寝こまれたら僕が困るからな」
くるりと背を向けようとする彼の、服の裾をつかんだ。熱のせいか頬がぽかぽかして頭がくらくらして、うまく考えがまわらない。目もうるんでいるから、彼の顔をじっと見つめないと見えない。
「ありがとう……看病してくれて」
「ばっ、馬鹿か貴様は! さっき言ったばかりだろう、聞こえなかったのか? 貴様が具合悪いと僕が迷惑なんだ! 僕に風邪がうつるだろうが。僕に仕えるという貴様の任務が果たせないだろうが。貴様の看病をしないと僕の評判が落ちるだろうが。誰が貴様の面倒なんかみたくてみるか!」
「い、いたいいたい」
病臥している僕のほっぺたを両方から容赦も手加減もなくつねりあげた。
恥ずかしがりのはにかみやさんが取るいじらしくも可愛らしい言動であってしかるべきなんじゃないのか、照れかくしというのは。なのにこの凶悪きわまる乱暴狼藉。ちっとも可憐じゃない! 度を超えすぎた恥じらいなんてどこが愛くるしいもんかっ!
ふん、と鼻を鳴らして彼が今度こそきびすを返した。
僕のおでこからぽとりと濡れタオルが落ちた。これを載せたままで、どうやって体温を確かめるっていうんだか。なんて苦しい言い訳だ。なんて無計画なごまかしだ。なんて無理のある言い逃れだ。
彼にしては珍しい。
ほんとは内心焦っていたりして。そう思って溜飲を少し下げることにした。
それにしても。危ないところだった。まったく油断も隙もあったものじゃない。
「そんなに風邪をひくのがいやなんだね。だけどさウイルスって、口移しで感染するんじゃないのかなあ?」
僕のせめてもの逆襲は、彼に聞こえなかったのかどうなのか。
とげとげしさを十二分に漂わせるその後ろ姿からは窺えなかった。