ふるふる図書館


第七話



 ルームメイトの彼は、人をそらさぬ穏やかな笑顔と裏腹に、威圧感すらただよわせるほど落ち着きはらったところがある。もちろん、外面での話だ。
 彼がまだ生徒会長ではなかったときもそう。
 僕は校舎の廊下で、出会い頭に上級生にぶつかってしまい、えらく機嫌をそこねられてしまったことがある。いわゆる因縁をつけられたというやつ。そこに颯爽と登場したのが彼だった。
「先輩、どうかなさいましたか?」
 にこりと微笑んだその表情に気圧されたように、僕にからんでいた上級生はしおしおと肩を落とし、すごすごと退散してしまったのである。ちょっとぽかんとしたものの、彼に礼は言った。
「あ。ありがとう」
「何がだ。謝意を述べるときは、何に対してなのかを具体的に言え」
 ふたりきりになったとたん、尊大な態度を前面に押し出してはばからない。だけど。言い方は憎たらしいが、言い分はもっともだ。
「上級生からかばってくれて、ありがとう」
「ああん?」
 せっかく僕が素直に従ったというのに、彼はくだらない戯言を聞いて耳が汚れたと言わんばかりの反応だった。チンピラだってもっと優しげで上品だろうと思う。
「うぬぼれもたいがいにするんだな。貴様など、助けたつもりはない」
「はあ」
「なぜなら、貴様などぶたれようが蹴られようが辱められようが踏みにじられようがいためつけられようが、どうでもいいからだ。痛くもかゆくもないからだ」
「はあ」
 やっぱりね。単に生徒会副会長という肩書きに恥じない振る舞いをしただけか? 正義感? それとも世間体?
「貴様にそんな行為に及んでいるのが僕じゃないという事実が猛烈に気に食わないというだけだ」
「はあ……」
「上級生みんなにいたぶられるよりは、僕ひとりになぶりものにされるほうがずっと貴様もうれしかろう?」
「はあ?」
 彼がいれば上級生から守ってもらえるとか、そういう問題じゃない。僕はそもそもいじめられるキャラクターではないのだ。前提からして間違っている。大いに現実から外れている!

 とはいえ。この学園で平穏無事で過ごせるのは彼のおかげであることに異論はなかった。
 いや、彼そのものが僕の災いであるからして、ちっとも! 断じて! ピースフルではないのだ。彼の詭弁にまんまと惑わされていやしないだろうか。危ない危ない。気をつけなくては。
 現に昨日の朝も。
 目をさましてまず視野に飛びこんできたのが彼の寝顔だった。しかも鼻先がくっつきそうな位置にまで肉薄していたのだ。心臓に悪いことこの上ない。
「なんで僕のベッドで寝てるわけ……」
 頭を抱えながらも、腹いせにとくと観察してやった。あたりを払う雰囲気をかき消し、眼鏡をはずした素顔をさらし、手を顔の前で軽く握って、幼子のようにいとけなくすやすやと眠りこんでいる、僕だけしか知らない彼の姿を。
 だけどそれ以上はよこしまな気持ちを抱くでもなく、そのままそっとしておいたのに、だ。
 彼は僕をこう断じたのだ。
「貴様は人間として大事な部分が欠落している! 人でなしがっ」
「は?」
 なぜ人間性を否定されねばならない?
「天使のように愛くるしく清らかで非の打ちどころもない美貌の持ち主が、パジャマで! 同じベッドで! 無防備に無邪気に眠りこけているというのに貴様、何も感じるところはないのか? ああ? この、唐変木の野暮すけのうすらとんかち! おたんこなす! どてかぼちゃ!」
 こいつ……っ。わざとか? 狸寝入りをしつつ僕の反応をうかがっていたのか? もしや、今までの寝ぼけっぷりも全部演技だったというのか?

 そんな黒い疑惑が僕の心にむくむくと頭をもたげたまま、今日の朝を迎える。
 彼はしっかりと、自分の持ち場で眠っていた。こんもりとまるく盛り上がったふとんが見えた。ほっとしてベッドから降り、洗面所へと向かおうとした。すると。
「ん……」
 小さな声がした。振り返ると、彼が寝返りを打った。はっとして、僕の視線は彼に釘づけになった。彼のなめらかなすべすべの頬を、涙が伝っているではないか。
 これ、演技じゃない、よな。チョモランマよりもプライドが高い彼のことだ、涙を安売りするもんか。泣き落としなんか僕に使うはずがない。たとえ眠っていて、無意識だったとしても。ありえない。
 彼は寝顔を人に見られるのがいやだという。もしかして……過去に何かがあるのだろうか。トラウマとか。
 どうすればいいんだろう。僕のためだったら、やることは決まっている。総力を挙げて彼を無視し放置することだ。一択クイズだ。
 だけど、彼のためには……どうすればいいんだ?
「ねえ」
 そっと声をかけて、手を肩にかけた。反応はない。熟睡度はいつもと同じらしいと判断した。
 おどろかさないよう、慎重に慎重に、耳もとにささやいた。
「桜新町君……」
 彼は目を閉じたまま、腕をのばした。すがるものを求めて暗闇で手探りでよちよち歩いているみたいに見えて、僕はついうっかりとその手を取った。仏心を出してしまったのだ。はなはだ不本意なことに。
「そしがや……」
 彼は僕の名前をまわらない呂律で呼ぶ。
「ここに、いて」
 僕はトイレに行きたい。
「だめ、か?」
 だめに決まってる。
「いじわる」
 ぽつりと恨み言が返った。どっちがだ! と反駁したいところだったけれど、彼の唇はさみしそうに微笑んでいて、僕は胸の奥がきゅっとしめつけられる心地がした。
「そばにいてほしいの? 僕に?」
「ほらやっぱり、そしがや、いじわるだ」
 甘えるように、彼が僕の手を握りしめる。動悸が、唐突に激しくなった。僕はそれを尋ねていいのか? その答えを、その先を聞いていいのか?
「そうだよ僕は意地悪だよ。だから」
 自分の手を包む彼のぬくもりを引きはがした。
「祖師谷!」
 不意にぱちっとまぶたを開け、明瞭な声で彼が叫んだ。一瞬でその視線が僕の瞳に照準を合わせる。たった数秒前までのぐずぐずふにゃふにゃした態度は微塵もない。
「わっごめん!」
 今回は珍しく完全に僕が悪いのだ。気の迷いを起こしたせいなのだ。脱兎のごとくいっさんに逃げようとした。
「貴様、口をすっぱくして言っているだろうが、謝罪の際は対象事項を明確に示せ!」
 心を鬼にしきれなかったから、だなんて説明できるはずもなく。
 僕はひとまずトイレに退散した。いったいどんな仕置きが待ち受けているのか、刑の執行を待つ囚人に、生涯の友になれるくらいの共感をおぼえながら。

20081217
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