ふるふる図書館


第六話



 指名されて彼はすっと音もなく立ち上がった。先生に当てられませんように、と胸に念じてかたくなに顔を伏せていた生徒たちが、一斉に視線を上げて彼のすらりとまっすぐな背中を注視する。安堵と、憧憬をこめて。
 長い白い指が長い白いチョークを取り、黒板に向かってさらさらと数式を書き連ねていく。動きにつれて、彼の細いやわらかな髪もさらさらと揺れ、窓からの光にきらきらと反射する。
 みんなが息をつめて見守る中、なめらかに方程式は解かれていった。
 静かにチョークを置き、くるりとこちらを向く。先生が満足そうに「パーフェクト」と賞賛し、生徒たちからほうっとためいきがもれた。
 くもりひとつない眼鏡のレンズの奥の瞳に涼やかな光をたたえたまま、彼は席へと戻っていく。
 どのしぐさひとつとっても、映画のワンシーンのようにさまになる生徒会長様。
 ああ、僕だって。彼に憧れていたんだほんとうは。なのに、幻想を打ち砕いたのは……。

「おやつがきれてるじゃないか、この、ずくなしの役立たずが」
 寮の自室の戸棚をさぐりながら、冷ややかに言い放つ僕のルームメイト。つまり彼本人だったとは。僕の夢を返せ。
「聞いてるのか? その耳はただの飾りか? 耳に見せかけて実は餃子か?」
「お菓子なら、まだあるだろう?」
 かろうじて試みた反撃は、またたくまに叩きつぶされた。
「僕はポテチののりしお味は食べないとなんべん言ったらわかるんだ。不意に来客があったとき、歯がのりだらけの状態で応対しろというのか? そんな間抜けな真似ができるか」
 ほらとっとと買って来い、と部屋を追い出され、とぼとぼと購買部へと足を運んだ。
「きみもおやつを調達しに来たのか?」
 声をかけられて振り返ると、同じクラスの生徒がいた。
「うん、まあね」
「やっぱりおなかがすくよね。育ち盛り食べ盛りだし」
 だけど、と同級生は言葉を続けた。
「生徒会長はお菓子ってイメージじゃないよなあ。もしかしてきみ、部屋でひとりで食べてるの?」
「え……」
 逆だ。僕が購入したお菓子はほぼことごとくルームメイトに召し上げられているのだ。
「ひとりじゃつまんないだろ。そうだ、今から僕たちの部屋に来ないか?」
「え、いや」
 その生徒会長様が、僕の帰りを、いや、僕が持って帰るはずのコンソメ味ポテチとマーブルチョコレートを待っているのだ。遅れたら烈火のごとく激怒するにちがいない。その様子を想像し、僕は竦み上がってしまった。それが災いした。
 強く拒絶する態度を表せず、ましてや断りの口実も見つけられず。「さあ行こう」と促されるまま級友の部屋を訪問する羽目になってしまったのだった。

 僕は地味で交友関係もせまくて、級友の部屋に誘ってもらえることなどめったにない。だから、うきうきわくわく楽しくてうれしくて、胸がはずむことだったはずなのだ。しかしそわそわと落ち着かず、時間ばかり気にして心ここにあらずといったひとときだった。部屋の主たちは陽気に明るくほがらかに談笑しているのに、僕ひとりが拷問にかけられてる気分で青ざめていた。
「じゃあ、そろそろ」
 あいさつして、逃げるようにそそくさと辞した。早足で立ち去ったはずなのに、すぐさま歩みはずっしり重くなった。遅くなれば寝るはずだと一縷の望みにすがって僕はことさらゆっくりゆっくり廊下を進んだ。
 だけどその廊下だって、残念ながら無限に伸びてるわけではない。
「ただいま」
 怯えた小兎みたいにおずおずと部屋に入ったとたん、眉を逆立てパジャマ姿ですっくと立ちはだかる彼と出くわした。
「どこまで買いに行っていた?」
「こ、購買部……」
「どこの購買部だ? 地球の裏側にでもあるのか? いったいどこで油を売っていた」
「ご、ごめん。ちょっと誘われて。断れなかったんだ」
 いちいちどもってしまう僕。
「ずっと、待ってたの」
「貴様をじゃない、コンソメポテチとマーブルチョコをだ」
 そんなことはわかりきってる。
「こんな夜遅くには、食べられないでしょう。なのに、起きて待ってたの?」
 髪からはシャンプー、首筋からはせっけんの香りがただよっている。どちらも彼のお気に入りのもの。就寝体勢はすでに万全だ。時刻からいっても、すでにベッドにもぐりこんでいる頃合いだ、ふだんなら。
 彼は目許を悪鬼のごとく険しくした。僕の発言は、きっと地雷だった。わかってる。わかっていて、踏んだ。
 きっ、と唇を噛みしめて、彼は憤然ときびすを返した。
「言われなくても、もう、寝る」
 捨て台詞とともに僕をその場に置き去りにして。
 ぽつねんと立ち尽くす僕と一緒にその場に残されたのは、彼の残り香。

 翌朝は、いつもと変わらない平和に包まれていた。
 僕が起き上がっても、彼は枕に頬を片方うずめてすうすうと寝息を立てている。顔にかかった髪をかきあげてみても、長いまつげを行儀よく並ばせたまぶたはひらかなかった。
「僕がいないと、きみは目をさませないの?」
 だけどあの林間学校のとき、僕は悟ってしまった。僕がいなければ、彼は眠りにつくことだってできなかったことを。
「僕がいないと、一日をはじめることも、終えることもできないの? 僕がいなくなったら、ねえ、どうするの、きみは」
 早朝の静けさに、僕の小さなささやきは吸いこまれてとけていく。
 彼はやっぱり、安心しきった幼子みたいな寝顔をさらしてこんこんと眠り続けていた。

20080722
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