ふるふる図書館


第五話



 無意識にためいきをついたとたん、相手が心配そうな色を満面にたたえて僕を見つめた。
「どうかされたんですか、先輩。顔色が悪いです」
「あ、ううん、なんでもないよ。ごめん」
 僕は手を振って、カップに口をつけた。
 カフェテラスで、僕は、後輩とふたりでお茶を飲んでいた。
 なんだって、この下級生はこんなに僕を慕ってくるんだろう。心当たりがない。僕は別に、ルームメイトのように生徒会活動をしているわけでもなければ、部活動で華々しく活躍しているわけでもない。勉強面でも運動面でも、自分でいうのもなんだが、完膚なきまでに目立たないのだ。
「悩みごとがあるなら、言ってくださいね。僕、力になりたいんです。ああでも、生徒会長がいるから、僕の出る幕はないんですよね」
 真剣に残念がっている。僕の慢性的な悩みのたねがその生徒会長様だとも知らずに。

「ただいま」
 下級生と別れて自室に戻ると、ルームメイトが机に向かっていた。
 背中を向けたまま、彼は「ん」とひとこと言う。いや、言葉になってない。したがって返事すらしていないことになる。
 そのわきを通り過ぎようとすると、またしても「ん!」と、今度は強めに発声した。どうやら僕に注意をうながしているらしい。
「何?」
「ん!」
「わからないよ」
 これで意思疎通ができる奇特な人物がいたらお会いしたいものだ。彼は視線だけをこちらに向けた。冷ややかすぎる流し目だ。
「貴様はどこまで鈍いんだ。犬だってもっと気が利いている」
 犬以下ですか僕は。
「見てわからないのか、僕は勉強しているんだぞ」
 彼の言わんとしていることはぴんときた。だけど、はいそうですかと素直に従うのは納得いかないから、まだとぼけておく。
「貴様が帰宅したとき、僕は貴様のほうにこう、肩を差し出した。となると、貴様のするべきことはひとつだろう。貴様の目は節穴か。その頭につまっているのは脳みそではなく八丁みそか」
「ああはいはい、わかりましたよ……」
 正答が遅れるほど、罵倒される時間が増えるのが落ちなのだと、うかつにも今さら気づいた。僕は早いところ諦観の境地に達するべきなのだ。
 上着も脱がないまま、彼の肩に手を置いた。揉みはじめると、彼はほうと吐息をついた。
「うん。貴様はまるで取柄はないが、マッサージだけはうまいな。同じ部屋でよかった」
 ほめてくれた。「だけ」の部分に力が入っていたような気がするが。
 上から、彼の横顔が見えた。体がほぐれてきたのか、色白の頬がほんのり桃色に染まっている。眼鏡をはずし、瞳を細め、くつろいだ、うっとりした表情をしている。すこぶる気持ちがいいらしい。
 う。直前までの非道さ理不尽さが帳消しになるほどの可愛らしさだ。なんてずるいんだろう。僕ときたらその罠にまんまとはまり、「背中もマッサージしようか?」なんて余計な申し出までする始末。
「わっ。くすぐったいな!」
 彼は細い体をくねらせるけれど、拒絶はしない。
「ずいぶんあちこち凝ってるね」
 それは、品行方正で完全無欠な外面を演じているせいじゃないだろうか。日ごろ抑えこんでいるものを発散すべく、僕の前では気兼ねなさすぎる暴虐なふるまいをするのだきっと。
 そんな生活、窮屈じゃないのだろうか。
 もし僕がいなかったら。僕が同室じゃなかったら、どうするつもりなんだろう。僕以外の誰かを、相手として見つけるんだろうか。
 僕以外の誰かを?
 一瞬、ぴたりと手が止まってしまった。
 そうか。そうすれば僕は晴れてこの虐げられた暮らしから解放される。自由を手に入れることができるじゃないか!
「あのさ。きみの本性を知ってる人ってほかにいないの?」
 思いきった質問は、相手の緊張が取れて気持ちがゆるみきっている瞬間に限る。背後にいるから、彼の攻撃を喰らうこともない。
「なぜそんなことを聞く」
 案の定、彼は怒りもせずに問い返す。
「僕だと、本当のきみを受け止めるには力不足かと思ったんだよ」
「ふうん」
 されるがままに体を揺らしながら、彼は即答した。
「貴様が未熟であることに異論はないが、だからといって秘密を知る人間など増やしていいことなどあるもんか。貴様ひとりで充分だ」
「う、でも」
「ほら、力が弱まってるぞ。怠けるな」
 ふんぞり返って高飛車に命令する。
「うう。えらそうだなあ」
「えらそう、じゃない。まぎれもなくえらいんだ僕は」
「どうしてこうも下僕の扱いをされないといけないんだろう。弱みを握っているのは僕なのに」
 切なさいっぱいで、僕は恵まれない現状を哀訴した。
「弱み? 何の?」
「だからさ、きみの地を知ってるってことだよ」
「ほかには?」
「ほかにって?」
「ああん? 貴様、とことん救いがたい馬鹿だな。こんなメジャーな弱みがほかにあるか」
 しんから軽蔑しきった口調だ。振り返った天使の容貌が、見事なまでに小面憎いものに変わり果てている。
「これがあるからこそ、正体という弱みだって貴様に見せているんだろうが。そんなことにも気づかないのかこのとんま」
「はあ」
 間の抜けた声を出したら、彼はさもさもあきれたように首を振った。
「あーあ、僕はまったく甘すぎる。こんな無粋な野暮天に、ふたつも弱みをさらしてるなんて」
 もうひとつの彼の弱み、か。
 そんなの、わかっていても口に出せるものか。

20080106
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