ふるふる図書館


第五章



「ここにいたの」
 少年が音もなく、ベンチに座ったぼくのかたわらに来て、腰を下ろした。
 大みそかの夜。兄さんがいなくなったマンションの中庭。誰もいなかった。雪はあとかたもなく解けてしまった。いくつもの窓から、明かりと団欒の話し声がもれてきていた。
「やせたみたいだね。食べているの」
 少年の問いに、ゆっくりと首を横に振った。
「食べることなんて、忘れていた。あまり食べたくないんだ」
 子供のころ、食が細く、母がさんざん手を焼いていた。食べ物がすべて生き物からできていると知ったら、食べられなくなってしまった。命を奪って命をつなぐことが恐ろしく思えた。
 少年はやんわりと微笑した。
「でもね、きみが食べたものは、きみの一部になるんだ。他者の命は、きみの中で生きるんだよ。きみは他者の命の記憶を受け継ぐんだ。魚なら、海や川で生まれ育ち、水の中を自在に泳ぎ回った記憶。木の実なら、大地にしっかりと根を張り、風に吹かれ、太陽に向かって伸びていった記憶」
「そう、そうかも知れないね」
 ぼくは白く凍ったためいきをついて、まぶたをこすった。
「おかしいな、どうして近ごろ涙が出るのだろう。今まで、ほんの数えるほどしかなかったんだよ。誰かと別れるときも、好きなひとが死んでも、泣いたりしなかった。冷たい人間だね、ぼくは。本当に悲しくなんかないんだ。生きていくのが長くなればなるほど、別れは増えるのに」
「別れを悲しむ必要はないよ。だって、この星にあるものはみんな、同じ星のかけらからできているんだから。きみも、植物も、動物も、石も、硝子も、何もかも。だから、形を変えて、また会うことができるんだ」
 ぼくは少年の顔を見つめた。
「きみは、誰なの」
 問いに応じたのは、鈴を振るような笑い声だけ。
「きれいな声をしているんだね」
 ぼくのつぶやきに、少年はなおも笑いながら、言った。
「本当の声は、きみが聞いているものとはちがうのに」
「そうだね。ぼくは本当の声を聞きたい。耳の穴を通過する際に、複雑にゆがめられてしまった声しか、認識できないんだから。
 きみの姿だってそうだよ。ぼくの視細胞は、どこまでの色を認識しているのだろう。はたして、すべてをありのままに映しているのか。
 ねえ、いったい、確かなものって本当にあるのだろうか。タシカナモノ、タシカナモノって何度も口の中で言葉を転がしているうちに、意味さえ失われていく。
 せめて、きみの存在だけでも、確かなこととして感じたいんだ」
「ぼくは、ぼくだけは確かなものだよ。たとえきみの世界のねじが狂ってしまったとしても。らせんのようにはてしなくねじれて、くるくる回り続けても」
 少年は身を寄せた。
「ほら、感じてみてよ」
 ぬくもりと鼓動と、澄んだ清冽な冬のにおいが、すっかり冷えてこごえ、感覚をなくしてゆく体にしみこんだ。今この世界で、この存在だけがほんものだった。
 ぼくは少年の体に両腕を回して、瞳を閉ざした。
 まぶたの裏に、まぶしいきらきらした光が見えた。
 あれは、昔住んでいた、今はもうない家の庭だ。
 夏の朝。朝露をふくんだ空気はまだ涼やかで、ぼくは夏の一日を何をしてすごそうか、あれこれ思いをめぐらせている。太陽が完全に昇りきれば、灼熱の暑さが襲ってくるという予感はあった。しかしその予感はまだ遠く、現実につながる糸は細い。
 裸足の足裏は白くてやわらかく、重みに耐えることをまだ知らないでいる。
 母が朝食のしたくができたと呼ぶ声がする。夏に食欲をなくすぼくのために母が用意する、新鮮な果実で作ったジュース。ブラインドが食卓に落とす、縞の影。ラジオから流れるオールディーズ。
 朝食が終わると、ぼくは二階へのぼる階段の途中に腰かけたり、天窓からさす光を避けながら、廊下に寝転んだりして本を読む。時折、とろとろと浅いまどろみに沈む。
 すりきれたレコードの音に似た、炭酸水のぱちぱちとはじける音。
 古い記憶が、そのときの空気や感覚までもあざやかに、閃光のようにすばやくよみがえり、ぼくは息をのんだ。
 記憶など、うすれていくばかりだと思っていたのに。深く沈んでひっそりと息づきながら、ぼくに掘り起こされるのを待っていたのだ。大地の底に流れる水脈のように、岩の中に眠る水晶のように。悲しみや苦しみさえ、時間の流れに洗われ、清められ、透き通り、輝きを放つのだろう。
 雪の深い日、家に帰ってくると、母が用意してくれた熱いココアと、蜂蜜をのせたホットケーキ。曇った窓硝子。燃える灯油のにおい。あたたかいストーブの上で湯気を立てるケトル。
 子供のぼくが道でころんでひざをすりむいたとき、手をさしのべて手当てしてくれた、通りすがりのおとな。缶から出して口に入れてくれたドロップ。プラタナスの街路樹から注ぐ木洩れ日。歩道に落ちる風見鶏の影。長く続く赤い煉瓦の壁に這う蔦。
 呼んでも戻らない時間たち。ぼくが幼いころすごした町は遠く、あの家も庭もすでにない。母も隣人たちも会えない。たとえ町を訪れたとしても、隣人たちに会えたとしても、あのころとは変わってしまっているだろう。
「光の国は、未来に築けばいいんだよ」
 少年が耳もとでささやいた。そうだ、そうすればよいのだ。いつの日か、光に満ちた庭を作ろう。なくしてしまったもののかわりに。
 少年がかすかに笑った気配が、ぼくの頬をくすぐった。
 目をひらいた。ぼくの腕は、少年を抱いてはいなかった。ぼく自身を抱いていただけだった。
「そうか、きみはぼくだったんだね」
 からっぽの腕を下ろしてつぶやき、ベンチに深く身を沈めた。鋭く切りつける澄明な冷気はぼくから感覚を奪っていた。寒ささえすでに感じないほど。
 晴れ渡った夜空に、星くずがまたたいていた。
 しばらく眠っていたかった。新しい年が明けて、太陽が昇るまで。
 いつか春になり夏がきて、灼熱の太陽がこの身をやくだろう。できることなら、それまでまどろんでいたかった。

20050305
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