ふるふる図書館


第四章



 クリスマスは、ぼくにとっては特別な日というわけではなかった。
 母が死んでから、そうなった。
 父は、休日になるとたまにどこかへ連れて行ってくれたりした。ぼくは、ひっきりなしに時刻を気にして、「今何時」と父にたずねた。父は、親子ふたりですごす時間をぼくが楽しんでいないと思った。
 ぼくは父と一緒にいるのは本当にうれしかったのだ。しかし、楽しい時間は必ず終わりがくる。だから心の準備をしておきたかった。さびしくならないように。悲しくならないように。
 そんな心情を説明するには、ぼくは幼すぎた。父と出かけたり外食したりすることは、めっきり減った。

 クリスマスの朝は、静けさにつつまれていた。
 この日、世界の各国で大勢の人々が祈りをささげているのだと思うと、敬虔な気持ちになる。
 敬虔とは何か、誰に対して祈りをささげればいいのか、わかっていないくせに。
 窓から外をながめると、一面が白く覆われていた。子供のころから、ぼくは雪のつもったところにためらいなく足を踏み下ろすことができなかった。あまりにも白く、たいらなところに、自分の足跡をつけたくなかった。けがし、壊してしまうことが怖かった。
 手のひらに視線を落とした。
 皮膚を透かして血管が見えた。赤い動脈、青い静脈。見てわかる血管さえ細いのに、気が遠くなるほど細くて無数の毛細血管が、この肌の下に走っているのだ。不規則に曲がりくねって。だから、どこを切り裂いても、血が出る。
 これほどまでに精巧なつくりをしていて、いつ壊れてもおかしくないほどもろい、そんな頼りない器に閉じこめられているのは、気がおかしくなりそうだった。
 いつだめになるのか怯えながら生活していくのならば、いっそのこと自分の手で壊してしまいたくなる。
 お守りのように肌身離さず持っているペーパーナイフを取り上げ、手首に当てた。どんなに待っても、刃は肌を傷つけなかった。ああ、ぼくは生きていたいと思っているのだ、と再認識するための、それは儀式なのにちがいなかった。少なくとも、死にたいとは思っていない、まだ。
 痛みを恐れているのだろうか、とぼくは自問した。そんなものは、どこへでもついて回るのに。おとなの体になる際に伴うもの。身長が伸びて骨がきしむとき、初潮を迎えるとき、破瓜のとき。去年親知らずが生えたが、すでに硬くなった歯茎を突き破られ、疼きがなかなか消えなかった。
 もしも背中に翼があったとしても、生えずに十九年間をすごしてきて、背の肉は、とうに硬いおとなのものになってしまったから、ナイフで裂き、えぐり出さなければきっと広げることなどできないのだろう。それとも、血まみれになった羽をひらいたところで、体の奥ですっかり退化してしまっているかも知れない。
 のどが渇きを訴え、ぼくは水道からタンブラーに水を汲んで、飲みほした。
 唇から水滴がこぼれた。心臓が早鐘を打ち、息切れがした。くらくらと眩暈がして、両手でシンクにつかまった。ステンレスに強くすがりついたぼくの指さきは白くなった。
 ぼくが独り閉じこめられているのは、砂時計の中か、肉体の中か、硝子の檻か、鳥かごか。いや、卵の中だ。
 殻はうつろでまるくて、どこまで行っても指がすがるところなどありはしない。鳥の雛であれば、殻を割るくちばしもあるのに、ぼくにあるのは、ただの握りこぶしだけ。素手でどんなに叩いてみたところで、外に出られるはずもなく、声の限りに叫んでも、外に届きはしない。
 兄さんは、卵という、誰も知らない透明な檻から出たがっていたのだ。白い両手を血に濡らして、殻を破ろうとしていたのだ。華奢で、無力で、非力なこぶしで。
 ぼくたちを産んだ鳥は、はるかかなたに飛んでいってしまった。子供たちを見捨てて、この世界に置き去りにして。
 卵から出なければ、本当に生まれたことにはならない。だから兄さんは飛び立った。本来なら真っ白だったはずの血染めの翼で。
 目に、不意に何かがこみ上げた。ぼくは心底おどろいて、手の甲に落ちた透明なしずくを見つめた。あまりにも唐突すぎて、それが涙なのだと一瞬わからなかった。
 兄さんのことを考えて涙を流すのは、はじめてのことだった。とまどいながら、ぼくは、涙というものはこんなに熱かっただろうかと考えていた。

20050305
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