ふるふる図書館


第六章



 おとなは見とがめると、いつのころからか、険しい口調と表情でぼくたちを引き離した。だから、ふたりでひとつの毛布にくるまって互いの体温を確かめ、じゃれ合ったり、愛撫をかわしたり、おしゃべりをしたりするのは、誰もいないときのふたりの秘めごとになっていた。
 荘厳なクラシック音楽のレコードをかけた部屋で、欺瞞や偽善に満ちたおとなを軽蔑して、肩を寄せ合ってくすくすと笑い合った。
「きみの肩甲骨は、翼に似ている」
「だけど、ぼくは飛べやしないよ、兄さん」
「自由に飛べないのは、ぼくのほうだよ。ぼくを踏み台にして羽ばたいていけば、誰もたどりついたことのない世界へ行ける。きみが高く、遠くへ駆けのぼることができるなら、ぼくは地面を這いつくばってもかまわない」
 ささやき声と指さきが背中をゆっくりとたどった。くすぐったくて身をよじり、羽枕に顔を押しつけて、気がふれたように笑った。
 狂おしいのはぼくたちだったのか、それともぼくたちを取り巻いている世界だったのか、どちらだろう。

 つかのまのうたたねから目ざめると、かたわらにあったはずのぬくもりがなくなっていた。
 マンションの屋上にその姿を見出した。
「眠ったと思っていたのに。こんなところにいたの。寒いから戻ろう」
 背後から声をかけられ、振り向いた顔は、冬空のもと透き通るように白かった。さびしげな笑みが口もとに刻まれた。
「兄さんだけだ。ぼくを探しにきてくれるのは」
「落ちてしまうよ。危ないから、こちらにおいで」
「危ないというのは、死ぬっていうことなの。
 人は必ず死んでしまうのに、どうして生きているのだろう。どうして、みんなは平気でいられるの。
 ぼくはもう、硝子の檻から出たいんだ。誰も、檻に監禁されていることに気づかないんだ。だって、檻は目に見えないし、ものすごく広くて大きいからね。
 いつ落ちるかおびえながら生きていくより、いっそのこと落ちてしまったほうが楽になるって思うことはないの、兄さんは」
 胸の底に深く落ちていく声を聞いて、やはりそうなのかという思いがわいた。ずっと、断崖のふちでつまさき立ちして歩くように、生きていたのだろうと。ちょうど今、十一階のマンションの屋上のへりに立っているみたいに。
 もし、もっと楽な道があると教えてあげても、ほかの歩きかたをすることができないのだ。足を踏みはずしても、張りつめた糸がぷつりと切れたように、ためらいなくまぶたを閉じて下へ吸いこまれていくのだろう。最後まであがこうなどというぶざまな真似はしないで。
「ぼく、もうすぐ十歳になるんだ。でも、きっと兄さんよりずっとずっと早く堕落してしまうよ。ぼくの心を閉じこめている器が、そうさせるんだ。ぼくは兄さんになりたかったんだ。なのにこの体が許してくれない。体は、ぼく自身でもあるから。兄さんの体とこんなに違っているのに。
 兄さんと一緒にいられて、楽しかった。これ以上の幸せに、もうめぐり会えないかも知れない。生きている限り時間をとめることはできないし、思い出を硝子壜に入れて取っておくこともできない。だから、ぼくはこのまま」
 返答につまった。かぼそく白いうなじを失いたくなくて、ピンで留めて標本にして、標本箱にしまっておきたいと思ったことはなかっただろうか。
 隙をつき、白い姿が、ふっと視界から消えた。宙に舞い、この星の引力の腕に抱かれて落下した。
 ぼくがあの子を殺した。ぼくを真似たかっこうをして、同じ言葉づかいをして、兄さんと慕ってくれたあの子を、みすみす見殺しにして死なせてしまった。
 ようやく思い出した。早熟で、聡明な瞳をしていたあの子が死んだとき、ぼくはあの子になったことを。かわりに、あの子が歩むはずだった道をたどることにしたことを。
 あの子を探すのは、ぼくだけなのだから。
 もうあの子にぼくを返さなくてはいけない。こんなに偽りと汚れにまみれてしまっているけども、許してくれるだろうか。
 そう、あの子と一緒にぼくもあのとき死んだのだった。十九歳で。
 心が死んでしまったなら、たとえ体だけが生きていても何の意味もなさない。だから。

 中庭のベンチに横たわるぼくに、時間の砂がしんしんと降りつもる。
 体も、罪も、覆いつくすように。
 それは空から落ちてくる純白の雪。かろやかな羽。乱れ飛ぶ蝶。棺に横たわる死者にささげる花。
 ぼくは諸手を上げて砂の中に沈みこみ、おぼれ、窒息し、眠りにつくだろう。
 砂に埋もれて、長い長いときをかけて濾過され、澄んだ清らかなひとしずくになることができればいい。
 体温がぐんぐん下がっていく。指を動かすこともかなわない。
 白いまばゆさに視界を埋めつくされ、もう何も見えない。

20050305
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