ふるふる図書館


第三章



 一限目の講義に出席するため、朝早くに家を出た。
 車内の蛍光灯は、うす暗さを強調する。乗客たちは魚のように押し黙っていた。
 子供のときに図鑑で見た、奇妙な魚たちが頭に浮かんだ。深海魚は、途方もなく多大な水圧のもとで生きている。なぜ、そんなところに住むようになったのだろう。一度も明るくあたたかい光を知らず、異形の姿をして。
 でも彼らを、永遠の暗闇と水圧から解放することはできない。圧力の変化に耐えかねて、死んでしまうのだから。
 この暗く重い底から永遠にすくい上げられることはない。きっとぼくも深海魚と同じだ。
 そんなことを考えながら、無言で電車に揺られていた。無表情の仮面をかぶって。
 隣に立っている人のきつすぎる香水。鼻に当たるふわふわした髪。前にいるサラリーマンの太すぎる首に食い込んだ、汚れのしみついたワイシャツのカラー。
 この光景が精巧にできたレプリカなら、叩き壊せるのに。キャンバスに描かれたリアルな絵なら、ペインティングナイフでずたずたに切り裂くことができるのに。
 新鮮な空気を吸いこむように、新鮮な水を飲みほすようにして、少年のことを考えた。澄んだ声、なめらかな肌。取り繕うことを知らない顔は、素直な表情しかできない。目の白い部分は、まだよどむことなく、青みを帯びている。
 かつては、ぼくもそういう子供だったらしかった。きれいな顔をしている、とよくおとなたちに言われた。はっきりとおぼえていないが、見知らぬ中年の男に連れて行かれそうになったこともあった。
 そんなきれいさは、ぼくにはもうない。白目には破れた毛細血管が、赤い珊瑚がしげっているように曲がりくねってのびている。近ごろでは、しげしげと鏡を見つめることもなくなった。
 ドアがひらいて、客が乗りこんできた。ぼくのそばに、四十代くらいの女性客が三人陣取った。
 彼女たちは大声でしゃべり続けた。いやおうなしに、会話の内容が耳に入った。たわいもない話だった。芸能人のうわさ、夫や子供のこと。なぜそんなに大げさに話すのか、ぼくにはさっぱりわからない。
 母が生きていたら、このくらいの年代なのだろうか、とぼくはふと思った。母はきれいなまま若くして死んだから、その先を想像したことなどなかった。
 母に関しては、ひたすらあたたかく、やさしい記憶しかない。今も生きていたなら、ぼくといさかいをしたりするのだろうか。ぼくは反抗したり、きらいになったりするのだろうか。母が老いていくところを毎日見ていたのだろうか。
 車内に響き渡る三人の声が、ぼくの思考をさまたげた。
 人のうわさに勝手な憶測をまじえた会話を聞いているうち、感情を一方的に押しつけるマスコミを想起した。

 ぼくが中学一年生のとき、同じ学年の生徒が遺書をのこして自殺をはかった。
 名前くらいしか知らない少年だった。
 生徒たちは学校の講堂に集められた。
 校長先生がマイクに向かって何かを話した。おぼえているのは、よく言葉が出てくるものだ、ぼくなら何も言うことが見つからないだろう、と思ったことくらいだ。
 マスコミが大勢やってきた。マイクやカメラをたずさえて。
 黙祷しているぼくたちのすぐそばに、無遠慮に向けられるカメラのレンズ。
 そのときおぼえた違和感は、まだ忘れられないでいる。
 透明な水に、どす黒いインクをひとしずく落とされたようなものだった。月日がたって、インクの色はうすれていく。でも、インクがしたたり落ちたときの感触、広がった波紋はしっかりと胸に刻まれたままだ。
 今のぼくは、こんな事件をニュースで知ったとしても、ああまたなのか、と眉をひそめるだけになりはててしまっているのに。
「いじめを苦に自殺」
 言葉を口の中で何度もとなえてみる。
 イジメヲクニジサツ。イジメヲクニジサツ。イジメヲクニジサツ。イジメヲクニジサツ。
 言葉は繰り返すにつれて意味が消えてゆき、ただの音のつらなりになる。こんなにもろくて不確かなものの上で、ぼくたちは生きているのだ。
 言葉で距離を埋めようとする。言葉が距離を広げる。だったら、ぼくたちは何に拠って生活すればいいのだろう。

 大学に着くと、誰もいない教室に入った。椅子に座り、バッグからナイフを出した。
 いつか買い求めたペーパーナイフはあまりにも華奢で、無力で非力に見えた。
 しかし、紙でさえ、肌を傷つけることができる。
 ぼくは手首に刃をあてがい、頭をたれてしばらくじっとしていた。
 やがてナイフをしまい、講義に出席するためにそこを出た。

 講義は午前中で終わりだった。
 昼食を取る学生たちで、食堂はごった返していた。
 自分たちの趣味を語り、熱中するあまり抑揚が大きくなる男子学生のおしゃべりも、人の噂話に余念がない女子学生のおしゃべりも、つけっぱなしになっているテレビのわざとらしい笑い声もうっとうしくて、早々に食堂を出た。
 廊下の窓から外を見ると、すっかり葉を落とした木々の枝の複雑な形が美しかった。よぶんなものを一切削ぎ落としてもなお、凛と立っていた。
 百舌が一羽とまっている。何か鳴いているようだが、聞こえない。窓枠が額縁がわりになって、一幅の絵のようだ。
 外はノイズのない静謐さにみたされていた。耳が痛いほどの静寂。
 琴の弦のようにきんと張りつめた空気は、もうじき雪が降ることを教えていた。胸いっぱいに吸いこむと、すがすがしい冬のにおいがした。
 乾いた風が、肌の水分を奪い、肌理を切り裂く。体の中によどんでいた澱が昇華されるようで、心地よかった。空虚なものになっていく感覚は、悪くなかった。
「学校は、終わったの」
 校門の前に立っていたのは、あの少年だった。
「そうだよ、もう今年の分は終わり」
 少年はけぶるような笑みを浮かべた。
 ぼくは少年と並んで歩き出した。

「雪だ」
 公園で立ち止まって、少年が空を仰いだ。
 ぼくも上を見た。舞い散る雪に吸いこまれそうになる。体が浮かび上がりそうだ。
 この白い世界に両腕を広げて沈みたい、という気持ちがおこった。奇妙な話だ。雪は天から降ってくるのに。
 でもその願望を、ぼくは昔から抱いていた気がする。夜、雪の舞い落ちるなか、自動車を走らせたことがあった。不規則にくるくると踊りながら、闇の中から純白のものがいくつもいくつもかすめた。ステアリングを握ったぼくの手に、力がこもった。右足はアクセルをゆるめるどころが、逆に踏みこんでゆく。
 そのまま吸いこまれてしまいたかった。
 少年は手のひらに受け止めた雪のひとひらがとけていくのを見つめていた。
「あと、どのくらいここに立っていれば、ぼくの手に落ちる雪がとけないようになるだろうね」
 少年がつぶやいた。
 ぼくの脳裏にくっきりと浮かび上がった。棺の中で、死者が花にうもれて横たわるように、少年が純白の雪にうずもれて眠る風景が。雪は確実に少年の体からぬくもりを奪い去る。痛みも悲しみも苦しみも感じなくなるまで。
 頭から振り払うことがむずかしい、息をのむほど鮮明なイメージだった。
 少年は体重がないもののように駆けた。白いコートが揺れた。背中にけがれのない翼をおった存在に似ていた。おとなの体を持ってしまったぼくにはできない身のこなしだ。
 かろやかに跳んだりはねたり踊れたりできたことなど、もうこの体は忘れてしまった。重くなりすぎて、思い通りの動きをしないぼくの肉体。
 少年の姿は、翼を持つ白い鳥。同胞がみな眠りについた季節にひらひらと舞う、孤独な蝶。
 ぼくの唇から、無意識に声がこぼれ出た。
「兄さん」
 少年は動きを止め、ぼくを振り返った。にっこり微笑した。ぼくは急きこんで問いただした。
「きみは兄さんなのか。兄さんの命日に、ぼくの前に現れたね。きみが羽を隠し持っていたとしても、ぼくはちっとも驚かないけれど」
 利発そうなまなざしは、たしかに兄さんと同じだった。ぼくは兄さんの顔を思い出そうとした。
 しかし、思い出そうとすればするほど、そのおもかげはぼんやりとした霞の向こうに隠れてしまった。あんなにくっきりおぼえていたはずなのに。ぼくは呆然とした。
 思い出せるのは、写真の中の兄さんの顔だけ。それらは、兄さんと死別したあとに見たものだ、すべて。
 ほんものの兄さんは、ぼくの記憶から消えていこうとしていた。
「ねえ、翼を持つものは、強靭な体と心が必要なんだよ。はばたくためには、丈夫な筋肉がないといけないし、一度空に舞い上がったら、どんなに疲れても羽ばたきをやめてはいけない」
 兄さんは、こんなことを言ったことがあったろうか。
 ぼくのまつげにとまった雪がとけて、しずくが瞳に入った。まばたきして、視界が明瞭さを取り戻したときには、少年の姿は見えなくなっていた。
 雪は、砂時計の中の砂のように、降りしきっていた。
 街は、クリスマスの明かりできらきらと輝いていた。

20050305
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