第二章
時間は砂でできている。どんなにつかもうとしても、指の間をすりぬける。音も立てずにこぼれ落ちる。
風に吹かれてさらさら散っていく、重みのまるでない、小さな砂粒たち。
昨日の講義の内容も、今日の昼食の献立もおぼえていないのは、きっとそのせいだ。
いつか、砂にうずもれて、ぼくは息絶えるにちがいない。水の中を泳ぐように緩慢なしぐさになり、そのうち体を動かすこともできなくなって。
ぼくを閉じこめている砂時計は、誰かに逆さまにされることなどないのだから。
大学を出て電車に乗り、ドアのわきの手すりにもたれて窓の外をながめた。
日は完全に落ちていた。窓ガラスに映るぼくの顔の向こうに、明かりをともした街が広がっていた。
電車は高架線を走った。きらめく宝石を撒き散らしたような夜景を見下ろした。一日の記憶がゆっくりと沈んでいき、長いときをかけて結晶していくのが見える気がした。夜の底へ、人の心の底へと。
中学生のときに理科の実験で、明礬(みょうばん)の結晶を作った。
明礬の水溶液の中に、明礬の粒を糸で結んだものをたらしておくと、それを核にして大きな結晶ができる。
しかしできあがったぼくの結晶は、きれいな形ではなかった。
はじめに異物がついていると、正しい形にならないのだと理科の教師が言った。
もともといびつなものは、ゆがんだ形にしかならない。美しい形にならない。
ひとつひとつ形が異なっていてもちっともかまやしないのだとそう考えるのは、現実と折り合いをつけて生きていこうとするあきらめや妥協に、そのときのぼくには感じられた。
最寄り駅に降りて家に向かった。通り道にしている公園を横切った。
公園といっても、ベンチと外灯と樹木とぶらんこしかない、小さな空間だ。坂や階段の多いいりくんだ住宅地のため、ここを通路にしないとかなりの遠回りになる。
立ち並ぶ家々からは、黄色い明かりと、夕食の匂い。食器の触れ合う音と、人の声。
それらは、ぼくが久しく自分の家で体験したことがないものだった。
「こんばんは」
ベンチにたったひとり座っていた人影が、ぼくに挨拶した。
「こんばんは。この前、会ったね」
少年は、同じ白いコートを着ていた。その姿は夜の中、発光するようにぼんやりとにじんだ。
「こんなところで、何していたの。寒いのに」
「星を見ていたんだ」
ぼくは空を見上げた。十二月の星座だ。名前は兄さんが教えてくれた。オリオン座、カシオペア座、北斗七星、牡牛座、昂。
星どうしは近くに、仲よくならんでいるように見えるのに、実際は何万光年もはるかな距離をおいてへだてられている。人の心も、そうなのかもしれない。
こんなにたくさんの星が見えるのは、怖い。
近くに宇宙がある気がする。
宇宙について書かれた本を、兄さんの部屋で読んだことがあった。宇宙にははじまりがあったことが説明されていた。やがて終わりがくるということも。
はじまりがあって、終わりがある。自分も、地球も、太陽も、宇宙でさえも。
いつか、すべてが終わってしまう。
遠くから、誰かが弾くピアノが聞こえていた。夕日を見ながら、ぼくはぽろぽろと涙を流した。その晩、恐怖でなかなか寝つけなかった。
だいぶ小さかったころのことだ。
「ねえ、ぼくが誰だかわかってくれた」
少年が、ぼくの目を射抜くようにまっすぐに見て問いかけた。ぼくは否定のみぶりをした。
「そう、でもしかたがないことかも知れないね」
少年は、あきらめのいりまじった、妙におとなびたもの言いをした。長いまつげを伏せると、目もとにどこかなまめいたかげりが落ちた。
「人違いではないの。どうしても思い出せないんだ」
「人違いではないよ」
少年はしずかに断言した。