ふるふる図書館


第九章



 夜半(よは)のことです。
 熟睡(うまい)の深みをたゞよつてゐた魔法使は、ひそやかな跫音(あのと)に目をさましました。扉をひらき、少年が燭台を持つて入つてきたところでした。
「どうした。怖い夢でも見たのかい、」
 少年はこたへず、燭台を円卓の上に置きました。無言で寝台に上がります。決意の色をのぼらせた頬は大理石(なめいし)のやうに蒼褪めてゐました。
 そつと、魔法使の絹の寝間着の袷を肌蹴(はだけ)ました。魔法使がつぶやきます。
「ふるへてゐるね、」
「あなたは、僕にいろいろなものを呉れました。でも、僕はあなたに何もあげられるものがないんです。この体しか、」
 指先が皺畳(しわだ)みた頬に触れ、首筋と胸をたどり、さらに奥まで進まうとしました。魔法使は少年の手首をつかみ、それをはゞみました。
「いやなの。僕のこと好きだつて、可愛いつて云つたのは、嘘なの、」
 少年は葩(はなびら)のやうな唇を噛んで、魔法使を振り仰ぎます。その表情と姿態(しな)には、ほんのわづかに媚と打算が含まれてゐました。魔法使は目をそむけたくなりました。少年の変はりやうが、見るに耐えなかつたのです。
「僕のこと、恥知らずだと思ふの。だつたら、嘲笑つてよ。罵つてよ。ぶつてよ。滅茶苦茶にされたつてかまはないんだ。だつてそのとおりだもの。阿婆擦れ。淫売。どうしようもないやくざな破落戸(ごろつき)。たゞ、あなたのお好みに合はせて演技してゐただけさ。いゝ子のふりをしてゐただけだよ。
 もう厭き厭きだ。うんざりだよ。僕は籠の中の金糸雀だもの。閉ぢこめられて愛でられて、歌へなくなれば捨てられるだけだもの。籠から出されたら生きていけないのに、」
 魔法使は何も云ひません。少年は哀しげに眉間をくもらせました。声が独語めいた小さなものになりました。
「どうして、あのころは、自分を惨めだと思はなかつたんだらう。僕ね、昔の記憶をすつかり取り戻して仕舞つたの。僕はあなたと、あなたがたとは違ふ存在なのですね。あなたがたから遠ざかりつゝあるのは、その所為なのでせう、」
 魔法使は、ゆつくりと少年の頭をなぜました。
「さうか、お前はずいぶん賢いのだつた。それにしても、大人になつて仕舞つたのだね。」
 少年ははつと息をのみました。涙目(いやめ)が揺蕩(たゆた)ふやうにゆれ、大粒の雫がきらめいてこぼれました。
 少年はこの屋敷に来たばかりのころ、夢に魘(うな)されては、しくしくと泣きながら魔法使いの寝台にもぐりこんできたものでした。そのころのことを思ひ出させました。
 しかし、今や、少年の声はか細く愛くるしいそれではありませんでした。罅裂(ひゞ)割れ、掠れ、不自然に咽喉にからまり傷をつけます。歔欷にはまるで相応しくなくて不似合ひで滑稽で、少年は不意に笑ひ出しました。しやくり上げ、嗚咽し、泪で貌を汚しながら一頻り笑ふと、唐突にぴたりと声ををさめ、淋しいまなざしと表情でぽつりと訴へました。
「僕は贅沢がしたいわけぢやない。あなたとふたりで幸福に、何の憂ひもなくひたすら愉しく暮らしてゐたころに戻りたいだけなのに。それはだめなの、叶わない望みなの、」
 そもそも、魔法使に出会つたのが不可なかつたのでせうか。ついて行つたのが間違ひだったのでせうか。しかしあのとき幼い子供にすぎなかつた少年は、いつたいどうすればよかつたのでせう。
「明日は夏至祭だね、」
 濡れた少年の頬を手で包み、魔法使は云ひました。
「もう一度やつてみよう。魔法をかけなほしてみるんだよ。もしかしたら、うまくいくかもしれない。なんといつても夏至なのだから、」
 少年はこくりとうなづきました。泣いたのが恥づかしいのか、はにかんで両手の甲で目許をこすりました。
「わかつた。ねえ、久しぶりに此処で寝てもいゝ。はじめてのときみたいに。」
「いゝとも。おいで、」
 魔法使の隣に体を横たえ、少年は幼(いと)けないさまでまぶたを閉ぢました。それは敬虔な祈りを捧げる人の横顔に似てゐました。

20070715, 20140920
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