ふるふる図書館


第八章



 ――さうだね、お前が子供でゐるうちなら。大人にならないでゐる間なら。
 ――いゝよ。僕、大人にならない。ずうつと子供でゐるもの。
 少年は、そつと口許を押さへました。あのときの会話を思ひ出すたび、乳香と没薬の香りの口づけの感覚がよみがへり、少年の口唇を疼かせるのでした。
 あれは契約の刻印だつたのかもしれないと少年は思ひました。
 魔法使に捨てられたら、少年は住む場所を失ひます。いつたい、何処に行けばいゝといふのでせう、あてなどまるでないのでした。
 このところ眠りにつくと、夢の中に少年の姿が出てきます。見窄らしい格好をした少年は、命をつなぐためならどんなことでもしてゐました。見知らぬ人の家の軒先で雨露をしのぎ、舗から麺麭(パン)やしなびた林檎を掠め取り、みだらで不潔で汚れきつた裏町でも平気で寝そべるのです。
 少年は居ても立つてもゐられず、すつかり落ち着きをなくしました。
 きつと女の話が影響しているのだらうと、女と会ふのもやめにしました。
 魔法使と夜の散策に出かけた先で出会ふ人は、皆、普通の人に見えるやうになりました。きらきら光る鱗の尻尾も、透きとほつた羽も、定かに感じ取れなくなりました。
 あんなに屈託なく愉しんでゐた歌も楽器も、気分よく晴れ晴れとした心持を取り戻しては呉れなくなりました。
 あれほど胸を躍らせた本は、どれを読んでも退屈に思へるやうになりました。
 毎日が怏々として満ち足りなくなりました。
 せめて心をなぐさめやうと、次から次へと、奇麗なものを欲しがりました。金剛石(ダイアモンド)、碧石(サフイイル)、紅玉(ルビイ)。翡翠の香炉、猫目石の指環。高額なものをせがみました。今までめつたに何かを強請(ねだ)ることがなかつた少年の行動は、魔法使を愕かせました。
「いつたいどうしたつて云ふんだい、私の可愛いヨハネ、」
 さらさらとやさしく少年の髪をなでる魔法使は相変はらずです。そのはずです。
 なのに、少年には、魔法使いの貌(かお)に汚斑(しみ)のやうな衰へを見つけるのでした。見憎(みにく)いと思ひました。ぞつとして視線をそむけ、そのあと、哀しくなつてうなだれました。
 低声(こゞゑ)でたづねました。
「ねえあなた、僕のこと好き、」
「もちろんだとも。」
「それなら。僕を此処にずつと置いて。僕、怖い。大人になりさうで怖いの。僕にもう一度魔法をかけて、お願ひ。」
 すがられて、魔法使は少年に口づけを与へましたが、護謨(ごむ)みたいなそこからは、昔日のやうに乳香と没薬の香は強くたゞよつてはきませんでした。
「もう、これが精一杯なんだ。私の力は弱まつてゐるから。」
 少年は悟りました。誰も見いだすことのできなかつたこの屋敷を他者が見つけることができるやうになつたのも、魔法使いが若々しさを喪ひゆくのも、少年の生活が瑞々しさを失くしていきつゝあるのも、みんなみんな、魔力が薄らいで仕舞つた所為なのだと。
 少年は自室に引き取ると、魔法使に贈られた宝物を眺めます。もし此処を出ることになつたら、これらはもらへるのか知らと考へました。売れば幾許かのお金にはなるのでせう。しかしいつかは底を尽きます。さうなれば、働かなくてはなりません。
 おのが手を凝と見つめました。労働(はたらき)を知らずにすごしてきた、繊細な諸手。優雅な双腕(もろうで)。世俗にまみれることなどできさうにありませんでした。
 甘美で贅沢な果実の味に狎(な)れきつて仕舞ふと、それ以下のものでは我慢できなくなるのです。
 鏡台をのぞきこみ、自分の姿を観察しました。冷静に念入りに、仔細に調べました。誰からも愛された美しさの名残はまだとゞまってゐます。これなら大丈夫かもしれません。きつとまた誰かが拾つてくれるでせう。
 でも、魔法使以上の生活を与へて呉れる誰かが現れるなど、少年にはたうてい思へないのでした。

20070714, 20140920
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