ふるふる図書館


第六章



 約束どおり、女は足繁く少年のもとを訪れました。
 かつての少年だつたら、女のことを包み隠さず魔法使に告げていたでせう。でも、少年はずつと話しそびれてゐました。説明のつかない何かが少年の意志を抑へ、とゞめてゐたのでした。
 それでも、もしも魔法使が女の気配に気がついて問ひたゞすことがあれば、すぐさま正直に云ふつもりでゐたのです。しかし魔法使は何も触れませんでした。
 おかげで、はじめて味はふ感覚が少年を襲ひ、苦しめました。
 それは、後ろめたさと云ふものでした。
 後ろめたさは、少年の胸を痞(つか)えさせ、塞ぎ、重くしました。
 女の話は少年の心を惹きつけました。街のこと、学校のこと、労働者のことは少年にはめづらしくて、何度でも聞きたがり、幾度でもせがみました。
「あなたも、昔はさういふ世界で生活してゐたのでせう、」
 女の問ひに、少年ははたと考えこみます。僕は魔法使に会ふまではどのやうに暮らしていたのだらうと。過去の記憶は必要がないまゝ、長いことかへりみられずにゐたのです。
「さあ、忘れちやつた、」
 少年は頬杖をついて遠くを見つめ、もの憂く応じるだけでした。その眼(まみ)には、長年の奢侈に倦んだ証の黒ずんだ翳が、婀娜つぽくなまめかしく滲んでゐました。
 少年は、魔法使にもらつたさまざまな知識を女に教へました。オペラ、詩集、葡萄酒、天体、鉱物、コクテル、楽器にワルツ。少年がよく知つてゐることを、女はあまり知りませんでした。矢張り女は、魔法使や自分とは違ふ世界の住人なのだと少年は思ひました。
 ところが、女の存在は日増しになじんでゆくのです。少年の心は千々に乱れました。
 女に感じる懐かしい匂ひ。それは、かつて少年が属してゐた世界のものでした。少年自身も気づいてゐませんでしたが、ゆつくりと確実に取り戻しつゝあるものだつたのです。
 それでも、女に会ふことをやめられませんでした。女とゐれば、自分が何者かわかるやうな気がしたからです。あと少し手を伸ばせば届きさうな答を知りたくてたまらなくなるのでした。

20070712, 20140920
PREV
NEXT
INDEX

web拍手

↑ PAGE TOP