ふるふる図書館


第五章



 何かに心乱されることない平穏無事な日々が、果てしもなく続いていきました。
 ある午後のことでした。
 眩暈がするほど花が濃厚に匂ひ立つ、蔓薔薇のからまる四阿(あずまや)で、籐椅子に凭れて少年が呆んやりしてをりますと、生垣をはさんだ向かふ側に誰かが立ちました。
 少年が気だるげに視線を送ると、その若い女は愕いたやうでしたが、臆したふうもなく「こんにちは。」と微笑みました。
「今日はヴイオロンを弾かないの、」
「なんだか、うまく弾けなくなって仕舞つて、」
「前に聴いたときはとつてもお上手だったわ。すぐに技量(うで)を取り戻すことができるわよ、」
「有難う。僕、あなたとお会ひしたことがあつたか知ら、」
 少年は椅子から立ち上がると女のそばに寄りました。
「さう、忘れて仕舞つたのも無理はないわね。昔のことですもの。」
 少年はもどかしく瞳を閉ざして記憶を辿らうとしました。このところ、少年は、過去のことが思ひ出せないのです。糸を手繰り寄せやうとしても、どれもぷつりと切れているのでした。
「あなたは大人にならないみたいね、」
 女の声に、少年はまぶたをひらきました。
「僕は大人にならないよ。約束したんだもの、」
 こたへて、ひつそりと果敢(はか)なげに笑みました。女はもの云ひたげに眉を寄せました。少年の襟もとに結ばれた、光沢(つや)のあるタフタのリボンは、しどけなく、はしたなく乱れてゐました。
「あなたは何処か、懐かしい匂ひがするね。また、此処に来てほしいな。僕、昼の間は話し相手が誰もゐないんだ。家庭教師も、ずいぶんせんからゐなくなつて仕舞つたし、」
 少年はすがるやうなひたむきさで、女を見据えました。釣りこまれるように女は首肯きました。
「有難う、」
 石を取り出すと、少年は女に握らせました。
「琥珀だよ、もらつていつて。丁度、あなたの睛と色が似てゐるから、」

20070708, 20140920
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