ふるふる図書館


第四章



 少年は庭でヴイオロンを奏でてゐました。静かでおだやかな昼下がりの大気を、ゆつたりとした調べがこゝろよく満たします。
 ふと、弓を持つ手を止めました。人の気配を感じたのです。まなざしを向けると、茨が咲き誇る生垣の向かふで人影が動きました。少年と視線が合ふが早いか、身を翻していつさんに走り去らうとしました。
「待つて、」
 いつも囁くやうな声で話す少年らしくない呼びかけが、咄嗟に口をついて出ました。人影はその場に立ち止まります。
 ヴイオロンを置くと、少年は相手に歩み寄りました。
「何故逃げるの、」
 生垣の向かふで、少女はおどおどと云ひました。
「ご免なさい。お邪魔をするつもりはなかつたの。あんまりお上手だつたから、つい見とれて仕舞つただけなの。」
「でも、どうして逃げるのさ、」
 少年は繰り返し、黙りこくる少女の顔をのぞきこみました。
「きみの眸は、榛(はしばみ)色だね、」
 少女は髪の生え際まで赤くなり、顔をそむけました。そんな容子を、少年は心底不思議さうに眺めます。相手が麗しく眩しすぎて間近で正視できない少女の心など、少年にはさつぱりわからないのです。
「ねえ、きみは何処に住んでゐるの、」
 少女は三つ向かふの街の名前を挙げました。
「道に迷つたの。こんなところに立派なお屋敷があるなんて知らなかつたわ。誰からも聞いたことがなかつた、」
「さういへば、昼間の街つてどんなものだつたろう。なんだかもう、思ひ出せないや。太陽が照つているうちは、僕は此処から出たことがないから。」
「閉ぢこめられてゐるの、」
 少女がおそるおそる訊くのへ、少年はきよとんとし、次にはくつくつと笑ひ出しました。
「まさか。どうしてそんな可笑しなこと思ひつくの。僕は好きで此処にゐるのに、」
「退屈しないの、」
「しないさ。」
 まだ肩をふるはせながらも、即座に少年はきつぱりとこたへます。
「学校は、」
「家庭教師が来て呉れるし、行く必要なんてないよ。」
「家庭教師、」
 少女は眼をまるくして少年を見直しました。服装はきちんとし、挙措はゆつたりと上品で、いかにも育ちがよささうです。身に着けてゐるものは何もかも、派手ではありませんが仕立てがよいと一目でわかります。風にも耐えぬ花を思はせるほつそりとしなやかな手も、可憐でつやゝかで磨き立てた桜貝のやうな爪も、手入れが行き届いてゐます。
 少女の戸惑ひに頓着せず、少年は申し出ました。
「道に迷つたのなら、駅まで送つていくよ。」
「そんなの悪いわ、」
「いゝんだ、街に出てみたくなつたんだよ、」
 かうして、少年は少女の道案内をしました。
 別れるときに、少女が否と云へなくなるやうな微笑をこぼしました。
「ね、きみ、また来て呉れるとうれしいな。僕、家庭教師が来ない日はずつとひとりなんだ。さうだ、」
 少年はポケツトを探りました。
「これ、きみにあげる。螢石だよ。暗いところで光るんだ。よかつたら帰り道で使つて、」
 少女の掌に翠色の小さな石をひとつ載せると、「ぢや、さよなら、」ときびすを返しました。
 日が暮れて、空には火夏星(ひなつぼし)、街には瓦斯灯が点るころになり、魔法使が帰つてきました。
 出迎へた少年は、早速、出会つたばかりの少女の話をしました。昼間に眼にした街のこともいきいきと語り終へて魔法使を仰ぎ見ますと、その頬は硬くこはばつてゐました。少年は息をのみました。
「僕、あなたを怒らせたの、」
「ひとりで街に行つては不可(いけ)ないと云ひつけたはずだ。」
「ご免なさい。もう決してあなた以外の人と外に出たりしません。僕、どうしたらいゝか知ら、」
 おろおろする少年に、魔法使は命じました。
「ヴイオロンを弾きなさい。久しぶりにお前の腕前を聴きたい、」
 それで許してもらへるのなら、と少年は安堵して、ヴイオロンを頤(おとがひ)にあてがひ、演奏を始めました。いちばん得意な曲を選んだのに、途中でつかへて仕舞ひました。
「今まで失敗したことなんてなかつたのに、」
 不審げにつぶやいて弓を構えなおしましたが、またも音色が途切れました。
 魔法使が近寄つてきて、少年の手から楽器をはずしました。
「集中力をなくしてゐるね。気を取られてゐるからだ、」
「何に、」
「昼間の少女にだ、」
 決めつけられて、少年は吃驚しました。
「そんなこと、」
 云ひさして、少年は色を失ひました。魔法使の両の瞳は激しい怒りをたゝへてゐたのです。
「許してください。あなたのお望みどおりにしますから。あの子のことを忘れろと仰るのなら、」
 少年は最後まで話を続けることができませんでした。口を魔法使が覆つて仕舞つたからです。
 むせ返るほどの乳香と没薬の匂ひに少年は苦しくなり、意識が揺らぎました。
「もう、思ひ出さないね、」
 離れた唇から紡がれた問ひに、少年は力なくゆらりと首を縦に折りました。

20070708, 20140920
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