ふるふる図書館


第三章



 朝食の席になかなか少年が姿を見せないので、魔法使は素馨(そけい)と麝香と梔子の香る少年の寝室に入りました。
 天蓋から下がる薄沙(うすぎぬ)を引き、上掛けをそつとはぐると、盗汗(ねあせ)にしとゞに濡れた少年の顔が現れました。怯えきつてゐます。
「どうしたのだい、怖い夢でも見た、」
 問ひかけると少年は、声が出ないのだと身ぶりで伝へました。魔法使は承知して首肯(うなづ)きました。
「それはきつと、声変はりだね、」
 少年は、驚愕しきつたさまで口許を覆ひ、大きな睛をよりいつそうみひらきました。安心させるやうに魔法使は微笑むと、少年に身を寄せました。
 馥郁とした没薬と乳香の香があたりいつぱいに満ちました。
 ほころんだ薔薇の花弁にも、上質な天鵞絨(びろうど)にも似た少年の脣を解放し、魔法使は促しました。
「さあ、声を出してご覧、」
 少年はおそるおそる咽喉をひらきました。昨夜までと寸分違はぬ、金糸雀(かなりや)の囀りのやうな奇麗な声が辷り出ます。少年は眼を潤ませました。
「よかつた。もう詠唱(アリア)が歌へなくなるかと思つたの、あなたは僕の歌ふ声がお好きだから。矢つ張りあなたは僕の魔法使だ。僕は何を心配してゐたのだらう、あなたに任せておけばすべてうまくいくのに、」
 含羞に染まつた面を伏せる少年の額にはりついた前髪を、魔法使は指でかきあげ、濡れた寝間着からのぞく膚(はだへ)を確かめました。
「非道(ひど)い汗ぢやないか、湯をつかつておいで、」
 少年は擽つたさうに細い体を捩ぢらせました。
 魔法使の屋敷に来てから、少年の感覚は少しづつ鋭敏になりました。微かに触れただけで反応を返す少年の姿が可愛らしくて可笑しくて、長いこと揶揄つてゐることもありました。
 笑ひころげてゐた少年が次第に呼吸を切らしてゆき、仕舞ひには涙を流して「もう許して、」と懇願するまでやめないのでした。

20070708, 20140920
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