ふるふる図書館


第二章



 魔法使は、少年に数と計算を教へました。文字と読み書きを教へました。歌と楽器を教へました。
 少年は利巧で飲み込みが早く、魔法使を喜ばせました。じきに、よそから家庭教師を連れてこなくてはならなくなりました。
 家庭教師の来ない日は、少年は屋敷にひとりでした。庭のハンモツクで書庫から出してきた本を読みふけつたり、ヴイオロンを奏でたり、蓄音機から流れるワルツに合はせて踊つたりして終日(ひねもす)を過ごすのです。
 蒼穹(あをぞら)が晩霞(ゆふやけ)に変はる時分になると、魔法使が帰つてきます。
「いゝ子にしてゐたかい、私のヨハネ、」
 魔法使は、少年を、ときをり巫山戯(ふざけ)てさう呼ぶのです。
 黄昏迫る街へと、ふたりは連れ立つて出かけます。つい先日まで襤褸(らんる)のやうな身なりで立ち尽くしてゐた街角を、こざつぱりとした小奇麗なこしらへで、洒落た真赤なロオドスタアに乗つて少年は通り過ぎていくのでした。夜風にスカーフをはためかせて。
 魔法使は、少年をどこへでも連れていきました。シネマにバア、ギヤルリイにカツフエ。黒瑪瑙(めなう)の瞳と朱鷺(とき)色の脣を持つ少年は、つねにたいそう目をひきました。
 たくさんの人びとが声をかけてきました。星が姿を変へた紳士、鱗のついた尻尾を仕舞ひ忘れた淑女、透明な羽を肩から伸ばした少女。少年の気を惹かうと、コクテルを奢つてやつたり、競つて贈り物を差し出したりしました。
 しかし、誰を見ても、矢張り魔法使が一等だと少年はひそかに結論するのでした。
 それに、少年は、コクテルよりもチヨコレイトの方が好きだつたのです。高価なカメオのブロオチよりも曹達(ソオダ)水の壜の王冠の方が好もしかつたのです。
 つんとすました声と横顔で、少年は数多の誘ひを袖にしました。少年が片時も離れずに寄り添つてゐる魔法使に、皆は嫉妬と羨望のまなざしを向けるのでした。
 魔法使は、少年に、なんでも与へてやりました。貝や真鍮でできた釦(ボタン)、ブリキの玩具、鉱石の標本、アンモナイトの化石、オペラグラス、異国の切手や硬貨、硝子ペン、濃青(こあを)のインク壺、海盤車(ひとで)の標本、ビイドロ珠、とりどりの色彩(あいろ)の貝殻。
 少年が歓喜の表情を浮かべるのを、魔法使は刻み煙草をつめた瀬戸煙管を吸ひながら満足さうに眺めます。
「気に入つたかい、」
 吸口から唇を離してわざわざさうたづねるのは、少年が大きくうなづき、大輪の芍薬がほころぶやうな極上の笑みをこぼすのを知つてゐるからです。
 少年は、いつも満ち足りたおだやかな気持ちで日々を送りました。蒼褪めた蝋人形のやうだつた肢体も、雪花石膏(せつくわせきかう)じみていた額も、真珠(あくや)のかゞやきを帯びていきいきとしてゐました。頬が桃色大理石の艶めきを喪ふことは、もうありませんでした。
 少年は、いつまでたつても大人になりませんでした。
 まちがひなく時間がたつてゐる証拠に、少年の宝物は次第に増えていきました。それらを、少年は鍵つきの小函に大切に仕舞ひこみ、折節にひらいては飽きもせず恍惚(うつとり)としてゐるのでした。

20070624, 20140920
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