ふるふる図書館


第一章



 都会(まち)の夜の薄闇を細い体にまとわりつかせ、少年はひとりたゝずんでゐました。
 今宵は夏至でした。一年でいちばん不思議なことが起こる晩です。
 いつも以上の期待をこめて、少年は待ち続けました。
 瓦斯灯に照らされた石畳に靴音がひゞき、ほんのり明るい更紗(さらさ)のやうな闇を透かして現れたのは、魔法使でした。
 きらきら光る星明りを浴びて散歩を楽しんでゐた風情の魔法使は、ふと足を止め、少年とならんで煉瓦の塀に凭れかゝりました。少年は横で凝(ぢつ)と見つめてゐました。
 魔法使は、銀のぴかぴかしたシガレツトケースを取り出し、「吸ふかい、」と少年にすゝめました。少年は無言でひとつうべなうと、白く長い指で一本をつまみ、脣に咥へました。
 魔法使が燐寸(マツチ)で火をつけると、冷んやりした涼しい香りがあたりに立ちこめました。上等の薄荷(はくか)煙草でした。
 ふたりはしばらく黙(もだ)したまゝ煙をくゆらせてゐましたが、魔法使がたづねました。
「夏至祭には行つたのかい、」
 少年はやはり何も云わずにかぶりをふりました。
 夕間暮れから晩にかけて、広場から、にぎやかな笛の音やざわめきが、高く低く聞こえてゐました。晴れ着をまとひ装ひをこらした人びとが行き交つてゐました。きつと、をかしな謎めいた姿の人たちも、何食わぬすました顔をして、中にまぎれこんでいたのでせう。
 でも、少年は参加したことがありませんでした。たゞ遠巻きに眺めるだけでした。
 煙草を吸ひ終へると、魔法使は、金の懐中時計の竜頭(りゆうづ)を押して蓋をひらきました。刻限を確かめ、少年を誘ひました。
「これから広場に行つてみないか、」
 少年はもう一度こくりと頷き、うしろに従いました。
 広場は、祭が終はつた後の静けさに沈んでいました。誰もゐませんでした。何も聞こえませんでした。楽しさを偲ばせるよすがはすつかり掻き消えてゐたのです。
 広場の隅には、薬草園がありました。檸檬草(れもんさう)、まよらな、かるみれ、まんねんろう、薄荷、香水薄荷、花薄荷、立麝香草(たちじやかうさう)。さまざまな香りが渾然と混じり、眩々するやうなあやしいかぐはしさを風に乗せて伝へてきました。
 魔法使は、青い星のかたちをした花を摘みました。瑠璃萵苣(ちしや)を、一輪は自分の胸ポケツトに、もう一輪は少年の髪にさしました。少年のすりきれた襯衣(シヤツ)には、ポケツトがなかつたからです。
 魔法使は陽気に笑ひかけました。
「夏至祭には、お洒落をするものだよ。」
 少年は、はじめて声を発しました。
「でも、もう終はつて仕舞つたのでせう、」
「見てゐてご覧。」
 魔法使が片目をつぶつてみせました。
 少年は目をみはりました。
 不意に、夜空をかゞやく行列が横切つたのでした。蠍、オリオン、獅子、羊、山猫、熊に、麒麟(きりん)に山羊。
 お道化(どけ)てとんぼ返りをしたり、ふたりに手をふつたりしましたので、魔法使も手をふりかへしました。
「夏至は夜が短いから、星が浮かれて上機嫌だ。闇が淡い所為で、姿が透けて見えるのさ。」
 魔法使が説明して呉れました。
 一団が消えたあとには、きらめく欠片がたくさん散らばつてゐました。少年は大きなものを拾い上げました。ズボンの衣匣(かくし)に仕舞つても、まだ光を放つてゐます。
 広場を出て、魔法使は少年に別れを告げました。そのまゝ右に歩を進めやうとしますと、少年の手が上衣(うはぎ)の裾をつかんで引き留めました。
 魔法使がふりむいても、少年はうつむいたまゝでした。
 迷つた小犬がついてきて可愛らしいが困る、といつた容子(やうす)で魔法使は微笑みました。
「私と一緒にゐたいのかい、」
「いつまでもゐたい。」
 少年の声は消え入りさうに細いものでした。
「いつまでも、といふわけにはいかないよ。」
 魔法使は考へこむやうにこたへました。
「さうだね、お前が子供でゐるうちなら。大人にならないでゐる間なら。」
「いゝよ。僕、大人にならない。ずうつと子供でゐるもの。」
 少年は面(おもて)をあげて、真面目に誓ひました。少年には、そんな未来のことなど、想像だにできないのでした。
 魔法使は、少年の頬に手を当てゝ仰向かせました。魔法使の吐息が体のすみずみにまで流れこんでくるのを少年は感じました。没薬と乳香の匂ふ口づけでした。
 青い花が足もとに落ちました。
 冷たく強ばつた手足がまろみを持ち、やはらかくほぐれていくやうでした。体の髄までとけ、骨の芯までとろけていきさうでした。
 ゆつくりと顔が離れました。
「おいで、」
 魔法使は少年を連れて歩き出しました。そつと少年の手を包みこむ魔法使の手は、大きくあたゝかく、やはらかでした。
 街はづれの小高い丘に到着しました。立派なお屋敷が建つてゐることを知らなかつた少年は、ふたゝび目をみひらきました。
 精緻なだまし絵を見てゐる感覚でした。注意して見ないとまるでわからないのに、一度存在に気づいて仕舞ふと、圧倒的な存在感をもつて迫つてくるのでした。
 魔法使は、少年を浴室に案内しました。大理石の床に、真鍮のカランのついた広々としたものでした。戸惑つたやうにおずおずとした視線を向けてくる少年に、魔法使は慈しみのこもつた笑顔を返しました。薔薇の香りのするシヤボンで、天童(エンゼル)の翼に似た肩甲骨が目立つ少年の華奢な背中を流してやりました。
 ふわふわの上質な寝間着とふかふかのふとんにくるまれて、魔法使に寄り添ひ、少年は安心しきつた心持でまぶたを閉ざしました。
 夏の短夜は、そろそろ終はりを告げやうとしてゐました。
 少年はかうして、魔法使と暮らし始めたのです。

20070622, 20140920
NEXT

↑ PAGE TOP