ふるふる図書館


第二十六章 上達しない口づけ



 互いに話を終えると、彼は眉根を寄せて、たばこをふかしていた。慶はまともに顔を上げられずに、おしぼりを意味なくいじり回していた。
「ごめん、いやなこと話させて。僕の話なんて、僕自身のことじゃないのにね。ちょっと甘かったね」
 Hが謝り、慶はかぶりを振った。
「いや、そちらのほうがものすごくヘビーだと思うけど……」
 Hの打ち明け話は、両親のことだった。誰もが認めるおしどり夫婦のはずだったのに、父親は愛人のもとで首をくくって自殺した。そのことは、Hと母親以外誰もしらないというのだ、Hの弟妹も。
 いっぽう、慶のことは、途中からは自分でえらんだ道なのだから、重さの度合いはちがうと思った。
「こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、ちょっとうれしかったな。今まで知らなかった慶の一面を知ることができて」
「軽蔑しないの?」
 慶はいぶかしんだ。
 いろいろなリアクションを見てきた。
 Aは、慶と最初に枕をともにした後、「相手をひきずり出して殴ってやりたい」と憤った。
 Sは、「どうしてそうなる前に阻止できなかったのか」と慶をすこし悲しませるような質問をした。
 Nは、慶が肉体のことに慣れてしまった今となっては帳消し、チャラになっていると考えているだろう。もしくは、結果オーライだと。
「慶は、慶なりに努力したんだろ。克服しようとして。前向きに取り組んだことだけでも、立派だと思うな。だから自信なくすことないよ」
 相手は、静かな口調で言った。
 不意打ちのように涙腺が熱くなり、目地がにじんだ。自分をまるごと肯定してくれる人を見つけた。ありがとう、とつぶやく声がかすれて、慶はあわてて目をこすった。



photo:mizutama

 遅くまで店で飲んでいた。
 駅まで歩く道すがら、Hが不意に言った。
「ねえ、キスしようか?」
 ふだんの慶だったら、そういう提案には応じないところだった。いや、ふだんのHだったら、そういう提案をそもそもしない。
 しかし、互いの秘密をさらし、こんなに親密に話をした直後では、別段おかしな流れでもない気がした。
 今夜はたくさんぐちを言ってしまったし、泣いてしまったし、なぐさめてもらい、肯定してもらい、多くのアドバイスをしてもらった。なのに冷たく突き放すのは恩知らずだろうと、礼のつもりで慶は了承した。
「でも、病気うつるかもよ。まだ完治していないかもしれないから」
「いいよ」
 唇が重なった。
 あれ、と慶は内心首をかしげた。予想していた以上に時間が長い。なんだろう、変だ。
 キスというものは、軽く触れておしまいだと思いこんでいたのだ。いまだに、脳内で官能がどうしても結びつかない。幼いキスや家族のキスからいつまでも発展しない。何をいまだに初心な子どもみたいな認識をしているんだろう、と自分がおかしくなった。
 慶の唇のかたちをなぞって確かめるように、相手のそれがゆっくりゆっくりそうっと動いている。
 くすぐったさと、それ以外の感覚で、背筋がぞくぞくと震えた。声を出したら一生の恥だと、眉をぎゅっとしかめ、まぶたを固く閉ざして耐えた。
 名残惜しそうに、相手が離れた。
 ひどく非現実で、奇妙な気分だった。でも、今目の前に立っているのは、まぎれもなくこの人で、この人とキスをしたのだと、慶は少し焦点の合わない目で情報の整理と認識に努めた。
「正直、受け入れてもらえるとは思ってなかった……。すごくうれしかった。このままずっとしていたいけど、さすがにそれはやめとくよ。自制心が飛びそうだしね」
 並んで駅に向かいながら、慶は相手の顔を見るのが恥ずかしくて、照れくさくて、どんな顔をしていいのかわからなくて、ずっとまっすぐ前を見つめて歩いていた。

20051126, 20080501
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