第二十七章 こころの裏切り
快楽をともにしたら、もしかしたら、この人のことを好きになることができるかもしれない、とそう思った。あるいは期待した。もしくは願望した。
どうして、慶のことをそんなに好きでいてくれるのか不思議でしかたなかった。慶は別にやさしくないし、容姿だって平凡だ。
Hにたずねてみたところ、返事はこうだった。
「慶が、聖人じゃないことは知ってる。ずるいところも、計算高いところも、黒いところも、みんなひっくるめて愛してる。なぜだかわからないけど。
慶のだめなところもみんなわかってるから、負担に思うことはないよ。いい顔しようとしなくていいよ。
将来、互いに年を取っても、一緒にいるところが想像できるんだ。慶以外に、こんな気持ちになったことはない。
でも、告白って、するよりされるほうがエネルギーいるってこともわかる。下手に断ると悪者あつかいされて恨まれたりするものだから。
だから、気長に待ってる。何年でも。ずっと、そうしてきたから、今さら待たされるのなんか、どうってことない。
どうしても、っていうのなら、断ってくれていい。僕は、慶がほんとうに幸せになるのを願ってるから。無理強いしない。
選ばないといけない、と思って慶が苦しくなるのはつらいし、そんな思いさせたくないから」
「ベッドだと、すごくいやらしいらしいよ。相手にそう言われるんだ。まるで人がちがうみたいだって」
そんな慶の言葉にも、
「別にいいよそんなの」
まったく気にしたふうもなかった。
彼は、慶の前では余裕そうに振舞っていた、いつでも。
そのことを慶が指摘すると、ほんとうはものすごく我慢していて、理性で必死におさえつけているのだと答えた。
この人を好きになれたら、どんなに楽だろう。
ふたりで寝て、気持ちよかったら、好きになれるのだろうか。
慶のことはなんでも知っているはずのHが、ひとつだけ、まるでわかっていないことがあった。
それは、慶がどうしても、彼を愛せないことだ。
photo:mizutama
そんなつもりはなかったのに、ベッドをともにしてしまった。なりゆきというか、はずみだった。
ふたりで海の見える町へと遠出した。彼にとってはデートだったのだろう。誘いを断ることもよろこんで楽しむことも慶にはできなかった。
深夜まで営業しているファミリーレストランで、Hは慶を時間をかけて口説き、慶は苦痛に思っているそぶりをなるべく見せないようにじっとうつむき。
そうして何時間もすごしていたら、終電がなくなってしまったのだった。
一夜をすごせる場所を探したが、あいにく宿泊施設に限られていた。
ひどく疲れてくたびれていた慶は、シャワーを浴びてさっさとベッドに入って眠りたかった。目の前の非日常にまぶたを閉じて一刻も早くさよならしたかった。
しかし、ひとつのベッドにふたりして、薄着で寝ている状況で、なにごともないまま朝を迎えるのは無理な相談だった。
翌朝、ことば少なにチェックアウトして、寝不足の目を太陽に痛めつけられながらふたりで電車に乗った。
無口なのは、体力だけでなく、気力も消耗したせいだった。
最初のうちこそ拒んだものの、結局積極的に取り組んだことを、慶は早くも悔やんでいた。
肌を合わせれば好きになれる、そんな期待はまったく水泡に帰した。
ちっとも気持ちよくなかった。植えつけられた快楽の種子を育てようとしても、何やってるのくだらないばかみたい、とこころは慶を冷笑しつづけた。いつもからだはこころをあっさり裏切りさんざん振り回すくせに、この期に及んで徒党を組んで、所有者たる慶を見放してみせたのだった。
Hの顔を見ることさえもなんだかゆううつになった。恋愛や肉体のことは、取り消しだとかなかったことにだとかやりなおしだとか、そういった選択肢はいっさい用意されておらず、一度深みに踏みこんだらリセットすることができないのはなぜなのだろう。
快感が得られなかったから、彼のことがいやになったのか。
こんなに自分のことを愛してくれている人を、すべてを理解した上で受け入れてくれて、おまけに、慶が追いつめられないように逃げ道まで用意してくれている人を、一度ためしてみただけで、からだの相性が悪かったといって、断るのか。
まったく最低だ。くずだ。慶は自分を罵倒した。自嘲した。
この先、どこまで行っても、こんな人生なんだろうか。ただからだがおもむくままに道をえらび、こころはからだの気随と傍若無人を手をこまねいて眺めるだけしかできないんだろうか。
慶はまだあがいていたのだ。自分ですら、あがき、もがいていることに気づかないほど、ゆるやかに。
すべては自分で選んだのだと、そう思わないと、後悔で押しつぶされそうだった。
あのときIについていってしまった自分を返してくれ、時間よ戻ってくれと願わずに生きていくためには、こんな最低でみだりがわしい慶を甘んじて引き受ければいい。みずからすすんでそうなったのだと言い聞かせればいい。
ひたすら前だけを向いて、明日を見つめて、振り返ることをしないで。
汚れてる? その意味がわからない、清潔さを求めるのは無益だ。
男遊び? 遊んでなんかない、いつだって真剣だ。
淫乱? 手当たり次第なわけじゃない、基準が他人と少しちがうだけだ。
失望も悲しみもいらないんだろう、そんなの、もうこれ以上感じたくないんだろう? だったら、こういう生き方でいいじゃないか。何を悩み苦しむことがあるというの、慶。