ふるふる図書館


第二十三章 役立たずなガラス



「恋人じゃない人とするなんて」
 Sの声が脳裏によみがえった。性行為を受けつけられなくなり、友達とリハビリをした、という話をしたときの感想だ。
 だったら、どうするべきだったのだろう。
 恋人としかしてはいけないのだったら、どうやって傷を克服すればよかったのだ。誰にも恋なんてできなかったのだから。一生恐怖と嫌悪と怯えを抱いていくかもしれなかったのだから。
「そいつに、部屋に連れこまれたときに、わからなかったの? 抵抗できなかったの?」
 慶がIに辱められた件について、Sはそうも言った。
 じゃあ、どうすればよかったというのだろう。
 服を無残に破かれて、殴られて、押さえつけられて、脅されて、無理やり暴行されていればよかったのか。
 誘惑したことなんてない、そんなこと言ったこともない、そんなことをほのめかす表情だってしたことない、そんな服装だってしたことない。
 隙をみせたのが悪い? 隙っていったい何なんだ。誰と接するにも、いちいち警戒して、顔も見られないくらい緊張していなければいけないのか。
 経験した人じゃないとわからない、というのはずるい気がして、言い返せなかった。黙りこんでしまった。
 怯え、嫌悪、羞恥、恐怖、それを悟られて征服欲を煽るまいとする葛藤。もしかしたら痛い目にあわされるかも知れないという恐怖、まるで未知の感覚に対する恐怖、その感覚に翻弄されて自分のまったく知らない自分に変貌させられる恐怖、それを恋人でもない人間に見られる羞恥、体を無理やり開かれる羞恥、誰にも見せたことのない部位を見られ、触られることの羞恥……。
 そんなものをひとつひとつ説明することはできなくて、できたとしてもわかってもらえそうにもなくて、ことばをなくした。
 お金を盗まれたら、お金を泥棒の目に入るところに置いておいたのが悪いと責められるなら。
 男に陵辱されたのは、自分が男の目に入るところにいたのが悪いということだろうか。存在してはいけないということだろうか。



photo:mizutama

 不意に慶は思い出す。十歳にもなっていないころのことだ。
 ふたつ年上のいとこの家に遊びに行った。部屋で、ふたりで本を読んでいた。ベッドに並んで腰かけて。
 突然、いとこの手が慶の肩にかけられ、背中はベッドに、唇はいとこの唇に押しつけられていた。
 幼い慶は心底おどろいて、部屋を走って出て行った。
 いとこは、罪悪感もない軽い気持ちでしたことなのだろうが、慶は夕飯も食べずに閉じこもった。泣くとか怒るとかいうより、ショックで感情が麻痺した。慶をとりまくすべての世界が凍りついた。
 もうひとつ記憶がよみがえった。こんなときに限って、いやな思い出ばかりが持ち主を痛めつけようとばかりに連鎖してあふれてくるものだと涸れてしなびた気持ちで過去をなぞった。獰猛で残忍な刃がどこまで慶を抉るのか確かめようとして。
 学生のとき、英語をおぼえたくて、人見知りがひどい慶にしては勇気をふりしぼって入った英会話のサークル。
 日本人相手でもうまく話せない。ましてや、日本語を話さない外国人ばかりだ。なかなか溶けこめないでいたが、ひとりが慶に熱心に話しかけてくれた。
 うれしくて、友だちになれたらいいなと思って、つたない語学力で一所懸命に話した。
 しかし、相手の目的は、慶のそれとはまるで一致しないものだった。
 ホテルに連れて行かれそうになり、ようやく事態が飲みこめた。
 怖かった。そんな目で見られていたのが悔しかった。
 鏡で自分の顔を見ることも、風呂で自分のからだを見ることもしたくなくなった。
 自宅のバスルームでシャワーを浴びているとき、突然からだが震え出した。手で自分の両腕を抱いて、うずくまってしまった。シャワーの湯で肌を打たれるままになっていても、なかなか立ち上がることができなかった。
 そんなささいなことで傷ついているようじゃだめだ。
 自由になりたかった。解き放たれたかった。支配されたくなかった。そのためにはどんなにきれいでも繊細なガラスの心臓はいらない。壊れて砕けた破片が突き刺さりみずからが血を流すだけ。
 慶はまちがっていたのだろうか。だから罰を受けたのだろうか。何をまちがえていたんだろう、気持ちだろうか。やり方だろうか。
 慶を傷つけた者たちは、慶が傷ついていることさえも気づかずに生きているというのに。
 分の悪い戦い。勝ち取るもののない、見返りのない争い。リスクの大きすぎる賭けはひたすら慶を消耗させすりへらしていく。

20051122, 20080407
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