第二十二章 守りたかったきみ
Sの家に行けば、友人のレベルを超えた肌の触れ合いがいつもあった。
「しばらく考えさせて」のあと回答を棚上げにされている期間中も、それは続いた。慶のからだが完全になおりきっていないので、愛撫をかわすだけにとどまっていたが、それでもふつうの友人の間柄から踏み越えたものにはちがいなかった。
それでも慶には確信があった。彼に選ばれることはたぶんないだろうと。
確信が現実になったとき、悲しむことはなかった。
彼のはっきりしない態度に悩んで、気持ちが不安定になっていたから、ひどく落ちこみはしたがむしろすっきりしたくらいだった。
きっと彼にも葛藤はあったのだろうと推察する余裕すらあった。
さようならを言って、彼の部屋を出た。すっかりおぼえた駅への道のりをひとりで歩いた。もう二度とここを通ることはないだろう。住宅街、昔ながらの商店街、ファーストフード店、コンビニ、スーパー、Sとよく入った居酒屋。
慶のことが好きだったから、つきあおうと言った。でも、平行して複数の人物と寝るような人間は安心して交際することができない。自分の知らないうちに、別の人とそういうことをする可能性があるから、信用できない。もう一度好きになろうと、ずるずるこうして会っていたけど、無理だった。
ひとつのベッドに横たわり、慶のからだに快楽を与えた後、慶があの回答をうながしたとき彼はそう告げた。
ほかの人には、そういう態度はとらないほうがいい、そんなことをしていながら好きになれないと言われたら、ふつうは傷つくものだから。慶はそう答えた。
駅まで送ろうか、とたずねられ、ふられた人間に情けは無用、と慶は笑って身支度してドアをあけた。振り返りもしないで。
Sと恋人どうしになったら、他の誰とも寝ない。以前、慶は彼にそう表明していた。慶は、性行為の依存症というわけではないのだ。
それでも、Sが慶を信じることができないのだったら、しかたがない。
慶自身、他の誰とも寝ないということばをほんとうに守れるか、少々心もとない。ほかのスキンシップと大差ないのだ。慶にとって。握手も抱擁も性交渉も、誰彼かまわずというわけではない。同列のようなものだ。
慶のあられもない姿を見て興奮するのは、大人向けの本や映像を見るのと同じだ。醜態をさらしているのが他ならぬ慶だから、慶が乱れているからこそこころをかきたてられる、なんてことはないはずだ。だって、今までの相手はそういう人ばかりだった。慶でなくてほかの誰かでもかまわないという人たち。
それでいい。ひとりのものになるなんて、きっとできない。
ただの性欲の処理方法のひとつ、捌け口でいたかった。その他大勢、不特定多数、名前も顔もない誰かでありたかった。「慶」そのものを求められるのは、「慶」そのものを差し出すのは、荷が重すぎた。どんなに大切な、大事な人であろうとも。
Sにはとうてい理解できないだろう。
これは失恋っていうのだろうか。ふられたのは、はじめてだった。そうか、自分なんかでもふられるっていう体験ができるものなのか。慶は妙に感心した。
あのときに。はじめてキスしたときに、きっぱり終わりにしておけばよかったんだ。拒絶されたのだから。
それなのに、Sの部屋までわざわざ会いに行った。好意を持っていたから? それとも、傷つけてしまったから、罪滅ぼしのつもりで?
どちらにせよ、慶は卑怯だった。自分のからだをえさに、Sをひきつけておこうとした。その報いを受けたのだ。
悪いのは慶だから、傷つかなくてはならない。Sの受けた痛みまで背負わなくてはならない。酔った慶に最初に仕掛けてきたのはSであっても。慶は謝りつづけ、慰めつづけた。
慶には、彼は大切な人だったんだろう。
そんなやり方で彼を守れたかどうかは、わからなかったけれども。
photo:mizutama
Sには慶は常に正直でいたかった。まっすぐを貫こうとした。だから慶は誠実ではなかった。