第二十一章 引き裂く病魔
Nが、病気になってしまった。
それが、慶からうつされたのだというのがNの結論だった。もちろん、ふつうのつきあいでは罹患しない病だ。
慶としかしていないのだから、原因は慶しか考えられないと主張した。
たしかにそうだろう、経済的にも性格的にも、よそで相手を見つけてくるようなまねなどNはとうていしそうにない。
誰かとそういうことに及んだのか問いただされて、慶はひたすら否定した。
実際、慶はSとは、何かに感染するようなことまではしていなかった。そこまで踏み込んでいなかった。自分の行動をひとつひとつ丹念に検分して、そのはずだと考えた。
じゃあ、いったいなんなんだ。この状況は。
とにかく、Sに伝えないといけない。慶の唾液で感染している可能性がある。
そう思って、慶はいそいで彼に用件を簡潔にまとめてメールした。
返信は、存外あっさりとしていた。
正直に教えてくれてありがとう、今のところはまったくだいじょうぶだけど、二、三日ようすを見てみる、とのことだった。
慶は心底ほっとした。せめてSが被害にあっていなかったことも。深く追及されなかったことも。
安堵しているうちに、慶自身もひどい苦痛におかされるようになった。ときには、立っていられないほどの激痛が走るようになり、鬱々とした気分で病院に行った。体調の異変は、もはや無視できないほどになっていた。
もちろん、Nと一緒になど行けない。誰にも言えない。
待合室にいる時間は、孤独で、静寂で、慶は何も考えられずに、ただ両手を祈るようなかたちに組み合わせてひざに置き、不可視のものにのしかかられ押しつぶされながらからだをかたくしてじっと座って耐えていた。
誰も見ていないテレビドラマの声が、耳をつるつると滑り素通りしていった。せめてドラマの再放送に集中しているふりをして重い時間をやりすごした。
慶のからだの中で何が起こっているのか、何がむしばまれているのか説明してくれた医師や看護師の事務的な態度はむしろ慶を落ち着かせたが、ほったらかしておくと子どもを残せないからだになり、手術も辞さなくなる旨の宣告までもが、同じようにさらりとなされた。
子どもを欲しいと思ったことはない、子どもを作れなくなることにはまるで苦悩などおぼえない、でも健康がそこなわれるのは避けたかった。お金がかかる。だいたい、手術を受けることにでもなったら、あるいはもし将来、子どもが作れないことを誰かに説明しないといけなくなったら。たとえばまかりまちがえて結婚などすることになったら。どう話せばいいのだろう。結婚相手や親族に。どう申し開きをすればいいのだろう。
完治するまで性交渉はしないようにとくどいほど念を押された。
「まあ、しても痛いでしょうけれど」
その通りだった。ここのところ、最中にかなりの痛みをからだが訴えていた。内部から病魔におかされているせいだとはまったく気づかなかったが、真相を知っては怖ろしくてそんなことはできそうになかった。
「からだは平気?」
Sがたずねてきた。彼のほうはほんとうになんともなかったようで、慶はうれしかった。
「で、それっていつの話なの?」
とうとうたずねられた。慶は悟った。
今、待ち合わせして食事をとっているのは、真相を慶の口から聞きだすためだったのだ。
最後に慶がほかの男と寝たのはいつだったのかと。そういう疑念を持つのはやむをえない。
慶は正直に話した。
案の定、彼は絶句した。そうだよな、引かれるとは思っていた、と慶は静かに納得しながら、うどんに入っていたかまぼこをわりばしでつまんだ。
Sとこういう関係になった時期と、Nと寝ている時期がかぶっている。
目の前のSは動揺を隠そうとしていた。
「そりゃ、そういう人がいるとは聞いていたけど……でも過去のことかと思っていたし」
自分が性行為を受け入れられなくなってしまった理由も、それを克服するためにリハビリしたのも、彼には話してあった。そのときは、平静に受け止めてくれていたように見えたのだが。無理してくれていたのだろうか、ほんとうは。
「ごめん。いいよ、もう終わりにしても。そのほうが、きみのためだと思う。ほんとうにごめんね」
「……しばらく、考えさせて」
それっきり、彼は口を閉ざし、ずっと何も言わなかった。
別れ際、逃げるように後姿を見せてそそくさと去った。慶はSが駅の人ごみにまぎれるまで長いこと見送っていたが、Sはわき目もふらなかった。
しばらく、っていつまでなんだろう。
何も連絡がないまま日数がすぎていった。
こんなとき、メールを出すのは負担になるしうっとうしいだろうと、慶も行動を起こさずに待った。
なんだかじりじりした。気持ちは宙ぶらりんのまま。
からだは完治しないまま。
それにしても、こんなにタイミングよく性感染症にかかるなんて、罠だろうか。それこそドラマか小説みたいに。事実は小説より奇なりとはいうけれど、こんなできすぎな展開、自分だったら絶対小説なんかにしない。
それとも、ばちが当たったんだろうか。
ばち? なんの?
貞操観念がないから? 裏切ったから? けがれているから?
だから天罰? 自業自得? 身から出た錆?
悪いのは、自分?
そう。悪いのは、自分。
だから、Sに謝りつづけなくてはいけない。
完治することのない病を背負ったNには責任をとらなくてはいけない。
photo:mizutama
季節が移り変わり、夏になった。
Sは、しょっちゅう慶と一緒にいて、楽しそうに酒を飲んだりしていた。
前と変わらないように見えた。
なのに、「しばらく考えさせて」の答えが出たのかどうか聞いてみると、とたんに口が重くなるのが常だった。
だから慶は、なんていうことのないメールを送ることにしていた。なんていうことのない言葉をえらんで。重荷にならないように。たわいもない世間話にまぎれてつづいていけるように。
それでも、時おり、返信がまったくなくなることが増えてきた。
たぶん、だめなんだろう。
じゃあ、どうして彼はまだ慶のそばにいるのだろう。
恋人と友人の認識の境界線がひどくあいまいでかんたんにシフトできるような慶とは、あきらかにちがうだろうに。世間の多くの人間と同じく、ふたつをはっきりわけたがるタイプだろうに。
だから、慶だって期待を捨てきれずにいたのだ。そんなものにすがることなど浅ましいと、じゅうぶんわかっていたのに。